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Author:海心堂
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 別府八湯温泉道第118代永世名人
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地獄+極楽ハイキング 観海寺~別府温泉コース ガイド・レポート

 

 

地獄+極楽ハイキング ガイド・レポート

観海寺~別府温泉コース

 

 別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2018年度の第一回は、平成30年5月12日(土)、温泉マイスター限定で観海寺~別府コースでの開催でした。

 この日は五月晴れの好天に恵まれ、陽だまりでは汗ばむほどでしたが、街路樹の下では時折、爽やかな風が吹き抜け、初夏を満喫するハイキングになりました。


 14:30に富士見通りの京都大学地球熱学研究施設に集合し、竹村先生をはじめ参加者7名で元気に出発しました!!

 今回は昨年来の宿題だった、「地獄+極楽ハイキング」にすべく、ハイキングコースを踏破した後、竹瓦温泉で汗を流し、蕎麦屋で乾杯という趣向です。

 

 スタート地点の京都大学地球熱学研究施設は、1923(大正13)年に設立されました。施設のHPには、「地球上で最大規模の火山・地熱温泉活動域のひとつである中部九州地域を巨大な実験装置とみなして,野外観測・調査や物質科学的・理論的解析を行い,熱現象の総合解析を推進しています.さらに,これらの結果を全地球的規模で展開する同様の研究結果と合わせて,地殻表層からマントル・核にいたる熱構造と熱現象の解析を進め,総合科学としての『地球熱学』の構築を目指しています。」とその研究目的が記されています。


 

 この建物は1922(大正12)年に竣工した煉瓦造り、地上2階半、地下1階、煉瓦タイル張り、建築面積510㎡の建物で、文化遺産オンラインHPによれば、「中央部に塔屋を持つ煉瓦造の研究施設。平面はL字型である。設計は京大施設部の永瀬狂三。煉瓦の赤と石貼りの白との対照や、イオニア式を模した柱頭飾りを持つ特徴的な外観で、別府湾を見おろすシンボルとして親しまれている。」とあり、1997(平成9)年に登録有形文化財に指定されました。


 明治44年に九州財界の大物の出資により、現麻生副総理の曽祖父麻生太吉が社長となり、別府温泉回遊鉄道㈱という会社が設立されました。流川通→山の手(鶴見園)→鉄輪→亀川→旧国道→別府港桟橋を結ぶ回遊電車を走らせようという壮大な計画が持ち上がり、本社建築用地としてここが選ばれたそうです。計画は途中で頓挫し、その後、京都大学に譲渡され、現在の建物が建築されたという事です。

 

 一行は富士見通りを横断し、山の手町の住宅街を進みます。大正時代末期に高級住宅地として分譲された山水苑はこの界隈で、かつては紅紫迎賓館と呼ばれた旧麻生別荘がここにありました。また、現「複合商業施設山の手ライフガーデン」の場所には、富士紡績の創業者和田豊治氏の別荘「致楽荘」がありました。昭和13年に中山悦治氏に所有権が移り中山別荘となり、別府を代表する別荘建築といわれました。

 別府市街地は西から東方向に下っている事は誰も知っていますが、この辺り地形は北から南方向にもかなりの下りであることが判ります。つまり、朝見川断層方面が低地になっているのです。

 

 途中、日蓮宗本光寺で「別府石」の石垣を見学しました。「別府石」とは、鶴見岳をはじめとする火山から、火砕流や土石流として流れ出してきた角閃石安山岩の事で、別府では古くから石垣や石塀の材料として使ってきました。灰色と赤色の2つの色合いがありますが、赤は溶岩が冷え固まる過程で、酸化したためこの色になったという事です。


 

 更に進むと門構えの立派にお宅があり、ここの石垣にも別府石が使われていますが、一部はレキ岩が混じっています。このレキ岩は大野川流域で産するもので、わざわざ遠くから持ってきたものなのか、その来歴は謎のままです。また、9万年前の阿蘇山大噴火の際の火砕流が冷え固まってできた阿蘇溶結凝灰岩で作られた石垣のお宅もありました。この石は比較的柔らかく、加工が容易なため、切石として積まれている事も多い様です。

 

 朝見川にかかる「いちのいで橋」に到着しました。ここからのけぞりそうな急坂を上った先に、「いちのいで会館」という仕出し屋があります。ここは時間の経過とともに湯の色がコバルトブルーから青白濁に変わる、ナトリウム-塩化物泉の「青湯」で有名で、多くの温泉マニアの心をとらえています。

 橋の対岸には別府市温泉給湯事業の雲泉寺貯湯タンクがあります。湧き水を貯めた堀田沈殿槽を起点に、井田位泉源や前八幡泉源で加熱された噴気造成泉が、ここの泉源でも再加熱され、朝見や浜脇地区の共同浴場や公共機関に送られています。


 

 別府ラクテンチ下の乙原集落には、別府金山の坑道跡があります。別府金山とは、「日本の産金王」といわれた木村久太郎が、1903(明治36)年に乙原山で採掘を始めたもので、最盛期の1913(大正2)年には金20kg(現在価値で約1億円)、銀36kg(現在価値で約240万円)を産出しました。しかし、堀り進むうちに高温の温泉が噴き出し、杭夫が火傷することが度重なり、1916(大正5)年に操縦中止に追い込まれました。

 金山採掘のために広大な土地を所有していた木村は、山上までケーブルカーを敷設するアイデアを思いつき、1929(昭和4)年に「遊園地ラクテンチ」を開園し、多くの観光客を呼ぶことになりました。

 坑道跡の見学をしていたら、すぐ前のお宅の方から声がかかり、この奥にももう一つ坑口があるとの事で、ご案内していただきました。穴は土砂で半分ほど埋もれていて、中に入る事は出来ませんでしたが、貴重な体験ができました。

 

 

 原町のある民家の石垣は、別府金山の坑道から出てきたと思われる、「バリ」と呼ばれる熱水変質岩が使われていて、石英の結晶が観察できました。


 

 

 ここからは流川通をまっすぐに下って行きます。途中でJR日豊線の下をくぐりますが、この辺りは海抜10.5mで、津波が来たら線路の先まで逃げろと言われるのは、海抜10m以上の所に避難せよという事の様です。

 

 流川4丁目の交差点に「伊能忠敬測量史跡」の記念碑が建っています。伊能忠敬は1810(文化7)年2月に来別し、ここにあった高札場に江戸日本橋より263里(1052km)という測量標を設置しました。

 

 ここから商店街を通って竹瓦温泉に向かいました。竹瓦温泉は1878(明治12)年に創設された別府温泉を象徴する市営温泉です。現在の建物は1938(昭和13)年に建設されたもので、文化遺産オンラインHPによれば、「中央は入母屋造の2階建で,1階が休憩所や脱衣所,2階が床・棚付の畳敷大広間になる。浴室は東側に突出する平屋建で,西側の寄棟造の平屋建は砂風呂になる。変化に富んだ外観や正面の唐破風玄関など,重厚かつ豪華なつくりで,温泉街の象徴的な存在である。」と説明されています。


 明治21年に神戸でコレラが流行した時、波止場に船が入ると、警察官と役場の衛生係が消毒箱で衣類を消毒し、人は竹瓦温泉に入れて防疫に努めたらしく、竹瓦温泉は汗がすぐ乾く泉質である事から、別名「乾液泉」と言われるのですが、この当時は悪名高く「検疫泉」と呼ばれていたそうです。


 

 

 竹瓦温泉の裏手に波止場神社があります。1878(明治3)年、初代日田県知事の松方正義により別府港が築かれ、波止場の鎮守としてこの神社がお祀りされました。

 「神様、仏様、稲尾様」と言われた西鉄ライオンズの稲尾和久投手は、神社のすぐ横の路地で生まれ、漁師だった父親を助けて舟を漕いだり、神社の境内でキャッチボールをしたりして、幼年期を過ごしました。


  

 また、この辺りの砂浜には温泉が湧いており、どこを掘っても天然の砂湯になりました。貝原益軒の「豊国紀行」には、「別府の町中に川あり、東に流る、この川も温泉湧出、その下流に朝夕、里の男女浴す、また海中にも温泉いづ、潮干ぬれば浴するもの多し、潮湯なれば殊に病を治す」と江戸末期の様子が記されています。

 そして海岸近くの低湿地帯では、畳表の原料の七島イやショウガが栽培されていました。砂浜は別府湾でとれるイリコと七島イを干す筵が一面に並んでいたそうです。

 

 今日のゴールの北浜海岸に到着しました。かつての砂浜の姿はなく、高潮対策の堤防が海と陸を隔てています。別府で唯一残された自然の海岸が、亀川の上人が浜で、ここに市営の海浜砂湯がありますが、これも他所からの引き湯で砂を温める人工的なものです。長く続く白い砂浜と、そこで砂湯を楽しむ人々の姿を思い浮かべて、失くしてしまったものが愛おしくてなりません。


 

 2時間予定を少しオーバーして、全コースを踏破しました。いつもならこれで解散ですが、今日は極楽コースが待っています。竹瓦温泉で汗を流し、蕎麦屋「にはち」で乾杯、そば三昧のコースを堪能しました。

 

 「地獄ハイキング」2018年度前半は、6月9日と6月30日を予定しています、多くの方々のご参加をお待ちしています。ありがとうございました。

 また、次回の「地獄+極楽ハイキング」は10月以降に開催する予定で、日程は別府温泉地球博物館のHPで告知します。こちらもよろしくお願いします。

 



テーマ:温泉♪
ジャンル:旅行

「僧侶とめぐる六郷満山の旅」 日出・豊後高田めぐり

 

 

六郷満山開山1300年 スタートキャンペーン

「僧侶とめぐる六郷満山の旅」 日出・豊後高田めぐり

 

 今年は718年に仁聞菩薩が国東半島に六郷満山を開いて1300年にあたり、昨年より様々なイベントが行われていますが、2月11日に開催された「僧侶とめぐる六郷満山の旅」日出・豊後高田めぐりに参加してきました。

 貸し切りバスの乗車料、昼食代、訪問地の拝観料すべて込みで¥1,300という破格のお値段での開催ですが、これは「六郷満山開山1300年」にちなんだものだそうです。

 

 大分駅前を9:00ちょうどに出発したバスは、別府駅前でここからの参加者を乗せ、総勢30人で一路国東半島を目指しました。

 

 最初の参拝地は日出町の赤松山願成就寺で、ここから椿光寺副住職の山口先達と合流、この日春季例大祭の行われている本堂で「般若心経を唱えました。

 日出町観光協会HPによれば、「願成就寺(日出妙見尊)は、養老年間(717724)、六郷満山の創建者・仁聞(にんもん)が建立したと伝えられる由緒ある寺で、天徳4年(960)空也上人が建立したともいわれています。速見郡に多くの寺院建立の願をたて、最後にこの寺を建立し、願いが成就したことから願成就寺と呼ばれたといわれています。地元の人々からは「赤松の妙見様」と呼ばれ親しまれています。」とあります。


 参拝者が次々と来られていて、数軒の出店もあり、午後からは柴燈護摩と火渡り行も行われるそうです。本堂の片隅で大小の鏡餅のあたる福引があり、私も運だめしに引いてみました。すると、何という事でしょう、一等の五升「福の玉」が当たりました。直径60cm、重さ9kgの大鏡餅で、足をふらつかせてようやくバスまで運びました。途中、参拝者から「すごいの当てたねぇ」とか、「そりゃあ、何升な?」などと声をかけられ、チョット誇らしい気分になりました。


 

 次に参拝したのは真木大堂で、豊後高田市のHPには、「真木大堂は、かつて馬城山伝乗寺と呼ばれた大寺院で、その寺域は現在の田染真木にとどまらず、真中・小崎・横嶺へと伸びて、西叡山と接するあたりにまで広がり、夕日岩屋・朝日岩屋・稲積岩屋(鍋山磨崖仏)などの7の末寺、大門坊をはじめとする36もの坊をしたがえていたとされています。」と説明されています。本堂で般若心経を唱え、国の重要文化財の9体の仏像が納められた収蔵庫に向かいました。


(撮影禁止のため、豊後高田市HPよりお借りしました)

 本尊の木造阿弥陀如来座像は、「像高216cm。檜材の寄木造り。彩色は肉身に漆箔、螺髪に群青、衣に朱色が見られます。伏し目がちな円満相に、法衣の流れるようなリアルな衣文は11世紀後半に京都で流行した定朝様の様式を取り入れています。高い肉髻と大粒の螺髪、やや面長で唇を強く引き結ぶ顔立ちなどは、定朝様流行以前の古様です。」(豊後高田市HPより)

 平成20年に収蔵庫内にガラスの仕切りが作られたため、普段は諸仏を直接見る事は出来ませんが、今回は特別に中に入って参拝する事が出来ました。


(撮影禁止のため、豊後高田市HPよりお借りしました)

 向かって右に安置されているのは、木造不動明王及び二童子像で、「像高255cm。榧材の寄木造り。木彫の不動明王としては日本最大級。二童子は130cmほどで、檜材・寄木造り。不動明王は、険しい表情で悪魔を撃退し、煩悩を断ち切り、とりわけ六郷満山では峯入り中の行者が真言を唱えることでその守護を得ると信仰されています。
 頭髪は巻髪・辮髪。丸顔の面貌は天地眼、上下の牙がのぞく忿怒相で、立体的な火焔光背は上部に迦楼羅が渦巻いており、不動明王らしい迫力が伝わってきます。」(豊後高田市HPより)


(撮影禁止のため、豊後高田市HPよりお借りしました)

 そして、向かって左に安置されているのが木造大威徳明王像で、「像高241cm。樟材の一木造り。わが国最大の大威徳明王像です。西方を守護する阿弥陀如来の化身で、阿弥陀如来・文殊菩薩が悪鬼と戦い、人々を教え導くために、それぞれ明王・水牛の姿に変じたとされています。日本では珍しい多足の像で、水牛に跨る姿が印象的です。
 6つの顔は六道(天上から地獄までを6つの段階に分けた世界)を見渡し、6本の腕で多数の武器を持ち、壇陀印を結んで四方の悪鬼を撃滅し、6本の足は六波羅蜜(仏教で実践すべき6つの項目)をひたすらに歩む姿を表しています。」(豊後高田市HPより)

 このお像の手を組んだ形が、ラクビー日本代表の五郎丸選手のルーティーンに似ていると、数年前に話題となりました。

 

 風雪の強まる中をバスは国宝富貴寺を目指します。ここの旅庵蕗薹で精進料理と手打ちそばの昼食をいただき、国宝富貴寺大堂に参拝しました。堂内で富貴寺副住職の読経の後、詳しい説明がありました。


 「富貴寺は平安時代に宇佐神宮大宮司の氏寺として開かれた由緒ある寺院です。中でも阿弥陀堂(いわゆる富貴寺大堂)は、宇治平等院鳳凰堂、平泉中尊寺金色堂と並ぶ日本三阿弥陀堂のひとつに数えられ、現存する九州最古の木造建築物であり、国宝指定されています。



 本尊の阿弥陀如来像は970丈にも及ぶ一本の榧の巨木から六郷満山寺院を開基したとされる仁聞菩薩の手によって造られた、と伝えられています。
 大堂内には極楽浄土の世界を描いた壁画が施されており、風化が激しいが、極彩色で描かれていたという調査結果から県立歴史博物館に忠実に再現されています。
 他にも大堂の周囲には僧侶が修行のときに使用したとされる、梵字が刻みつけられた仁聞石や鎌倉時代の笠塔婆、室町時代の国東塔等があり、かつての富貴寺の繁栄ぶりを偲ぶことができます。」(豊後高田市HPより)


(大分県立歴史博物館のHPよりお借りしました)

 終戦間近の時期に米軍の爆弾が裏山に落ち、屋根や扉が大破して、雨漏りにより貴重な壁画が剥落してしまいました。創建当時の壮麗な姿は、県立宇佐歴史博物館に実物大の復元模型が展示されています。

 

 次に参拝したのは金剛山長安寺で、境内にはシャクナゲをはじめとして四季折々の花が咲き、別名花の寺とも呼ばれています。本尊は千手観音で、寺宝の収蔵庫には国の重要文化財の木造太郎天及び二童子像と、銅板法華経19枚 附:銅筥板4枚」納められています。


 「太郎天の一番の特徴はその姿にあります。太郎天は聖徳太子のような「みずら(角髪・美豆良)」をしていますが、これは平安時代以降では主に子供の髪型で、長安寺鳥居などに残る「太郎天童」という文言にあるように、古代の子供の姿をしています。太郎というのも日本古来の子供の名前であり、太郎天は子供をモチーフに造られたことが分かります。
 山岳宗教において、子供は神聖な存在とされています。太郎天も国東半島・修験者を守り神として崇敬を集めました。民話では高天原の神様にかけあって真玉・湯原の温泉をつくったのも太郎天だと伝えられていますね。そうした信仰の変遷の中で、木造太郎天像は江戸時代には日本古来の神様とされ、長安寺境内の六所神社に祀られていました。」(豊後高田市HPより)


(撮影禁止のため、豊後高田市HPよりお借りしました)

 

 この日の最後の参拝地は威王山無動寺で、本尊は不動明王です。ここでは今日の参加者が一人二枚の護摩木に願い事を書き、ご住職が護摩焚き祈願を執行され、一同で祈願しました。


(撮影禁止のため、豊後高田市HPよりお借りしました)

 

 無動寺は「六郷満山中山本寺の一つです。修行・祈祷の道場、満山の記録所として栄えていました。また、堂内には大分県下最多の有形文化財木彫仏が所せましと奉安されています。御本尊の不動明王像は榧の一木造で総高2m余りにも及びます!!その差し迫るようなりっぱな像は一見の価値ありです。

 堂内には他にも薬師如来坐像や日光・月光両菩薩像、十二神将等が収められていますが、これらが揃って現在まで伝えられているのはこの無動寺だけだそうです。歴史と格式が感じられます。」(豊後高田市HPより)

 無動寺の裏山は無動寺耶馬と呼ばれ、正面の天念寺耶馬とともに、昨年10月に国の名勝に指定されました。


 「天高く聳える岩峰、空中に架かる無明橋が六郷満山の修行僧たちの歩んだ長い歴史を物語る「天念寺耶馬及び無動寺耶馬」について、1013日(金)の官報告示により、正式に国の名勝に指定されました。
 修正鬼会で有名な天念寺・平安仏の数々が祀られる無動寺の後背には、それぞれ屹立(きつりつ)する岩峰が見られ、平安時代以降、六郷満山などの僧侶たちの「行の場」として展開してきました。江戸時代には、三浦梅園らによって国東半島の岩峰の景観が高く評価され、後に名勝・耶馬溪になぞらえて「○○耶馬」と名付けられた名勝地となっていきました。
 中でも「天念寺耶馬及び無動寺耶馬」は、岩林・岩壁状の際立った地形的特徴を持ち、峯入りのルート上の連続性や、両方に設けられた無明橋が互いの耶馬の視点場となっている点などが評価されました。」(豊後高田市HPより)

 これで今回の巡礼は終了です。時より強く雪の降る寒い一日でしたが、山口先達のお導きで無事に旅程を終了しました。大分駅前でバスを下車し、重さ9kgの「福の玉」を抱えて家路につきました。




 

2017「おおいた遺産」モニターツアー -大分市編-

 

 

2017おおいた遺産」モニターツアー

大分市編

 

平成29年12月17日

 

 一般社団法人大分学研究会では、今年度「おおいた遺産」を巡るモニターツアーを5回シリーズで開催しています。その第四回は大分市編で、平成29年12月17日(日)に開催されました。

 今年一番の冷え込みの天気予報でしたが、時折薄日が差すとはいえ、予報通りの北風の冷たい一日でした。

 

 別府からの参加者を乗せたバスは、大分駅前に8:50に到着し、本日の同行講師の大分市教育委員会の坪根伸也氏を迎え、最初の訪問地の国指定史跡の「大友氏遺跡」へ向かいました。

 「大友氏遺跡」は、「14 世紀から16 世紀末にかけて本市の東部大分川河口付近の左岸に形成された都市「豊後府内」の一部を構成する中世大友府内町跡の中心的な遺跡である。中世大友府内町跡は、豊後国の守護大友氏の拠点としての役割を担ってきた「戦国大名の館を中心に発展したまち」であると同時に、戦国時代には中国・朝鮮半島・東南アジア地域との貿易により繁栄した「国際貿易都市」という二つの性格を併せ持った遺跡である。平成8年度から本格化した発掘調査により、次第にその具体像が明らかとなりつつあり、調査成果をもとに史跡指定が進んでいる。(大分市「史跡大友氏遺跡整備基本計画(第1期)より)」と説明されています。


 大友末期の薩摩島津氏の進攻の際に焼き討ちに会い、江戸期に入ると居城が海に近い現府内城に移ったため、当時の庭園遺構や整地された跡、掘立柱建物跡などの中世大友府内町跡が状態よく残されています。


 残念なのは、南蛮文化に関する遺跡が確認されていない(場所は特定できている)点で、たとえばゼウス堂(天主堂)跡などが確認されれば、さらに貴重なものと認められるでしょう。

 

 次に向かったのは「大分県埋蔵文化財センター」で、 埋蔵文化財の調査、整理、保管、公開などの業務を行う県の行政機関です。こちらには2つの常設展示室があり、 考古資料による通史展示の「豊の国考古館」と、大友氏遺跡に関する展示を行う「BVNGO(豊後)大友資料館」です。

 考古資料については、かなり充実した展示内容で、親指大の「犬型土製品」のおおらかさとかわいらしさに目を奪われました。また、「話題の資料展」では、シカの文様を線刻した土器が展示されていました。「弥生時代中期後半の壺2個体で、ひとつは口縁部に2頭のシカと思われる動物、もう1個体は8点の矢じり状の線刻を連ねたものが描かれています。2頭のシカは頭や角、体もリアルに表現されています。弥生時代の動物絵画土器としては県内初の出土ですともに豊穣を祈る農耕祭祀に使われたものでしょう。」 (センターFaceBookより)




 大友資料館は大友氏が400年 に渡って豊後国を支配した歴史遺産が展示されていますが、南蛮文化やキリシタン信仰に関する展示は手薄で、前述のゼウス堂(天主堂)跡などの発掘調査が待たれるところです。

 

 次に戸次の「帆足本家 富春館」に向かい、蔵を改造したレストランでの昼食です。戸次名物のゴボウを使ったヘルシーメニューで、美味しくいただきましたが、料理の提供があまりにも遅く、ずいぶん待たされてしまいました。


 「帆足家は、12世紀初め玖珠郡に興る。家系図によると豊後守護職大友氏と主従関係を結び1586年(天正14年)戸次市村に居を定め、江戸時代に入ってからは臼杵藩稲葉氏領の庄屋となった。
 (中略)このような戸次市にあって、帆足家は農業のかたわら造酒を業として産をなした家である。現在の母屋「富春館」は一八六三年(慶応元年)臼杵の名棟梁高橋団内の作になるもの、式台付玄関など武家の家構えの特徴をもつ、館号「富春」は帆足家醸の銘酒を意味し頼山陽によってこの名を伝えた。
 豊後竹田の出身で文人画家、田能村竹田が初めて帆足家を尋ねたのが1816年(文化13年)と言われ、その後幾度となく訪れ詩画を書き時には、帆足家の為に絵を書いた。

(中略)帆足家は竹田の良き理解者となり、富春館は多くの文人画を楽しむ自由人たちのサロンとなった。」(帆足本家HPより)


 帆足家が所有する田能村竹田の絵画26点はすべて国の重要文化財に指定され、大分市美術館に寄託されているそうで、当家の代々が芸術家のパトロンとしていかに大きな役割を果たしてきたかが伺えます。

 

 次は「大分スポーツ公園 大分銀行ドーム」ですが、現在、シーズンオフの改修工事中で、しかもこの日は工事をお休みという事で、ピッチに立つことができました。また、選手のロッカールームや、大分国体の際に天皇皇后両陛下が観戦された貴賓室まで見学させていただきました。




 大銀ドームは、2002年ワールドカップサッカーの会場として総工費251億円を費やして造られたスタジアムです。以前はビッグアイと呼ばれていましたが、今は大分銀行に名前が貸し出され大銀ドームと呼ばれています。サッカーJ2の大分トリニータのホームスタジアムとしても使われています。

 2019年ラクビーW杯日本大会では、準決勝2試合を含む全5試合がここで行われます。

 「大分銀行ドームの可動屋根は世界最大級で、固定屋根の上を滑るようにスライドして開閉します。可動屋根には昼間閉じた時に内部が暗くならないよう、太陽光を通しやすい膜(PTFEコーティッドガラス繊維一重膜、透光率25%)を用いています。 骨組みは三角格子(トラス)の鉄骨を組み合わせて作られております。」(大分スポーツ公園HPより)


 2008年に大銀ドームをメイン会場として開催された「チャレンジ!おおいた国体」において、成年男子400mハードルで大分県佐伯市出身の成迫健児選手が、見事優勝を成し遂げた場面が、この目に焼き付いています。

 

 続いて鶴崎の「毛利空桑記念館」を訪ねました。記念館のHPには、「幕末から明治初めに活躍した儒学者・教育家・尊皇論者。名は倹、通称は到、空桑は号です。鶴崎の脇蘭室、日出の帆足万里に学び、また熊本の大城霞坪、福岡の亀井昭陽に教えを受けました。文政7年(1824)に郷里の常行村(現大字常行)に私塾・知来館を開き、後には鶴崎の熊本藩士子弟の指導方にも任じられました。「文ありて武なきは真の文人にあらず。武ありて文なきは真の武人にあらず」を信念とした剛毅端正な人で、勤倹を実践して子弟の指導にあたりました。」とあります。


 私には江戸時代の儒学者とか思想家とか教育者とかの業績がきちんと理解できないのですが、空想もその一人です。魚の鱗が夕日に照らされて金色に輝くのを見て、由布院の「金鱗湖」の名付け親となった事を知っていたくらいです。

 「空桑思索の道」と名付けられた公園の一角に、勝海舟と坂本龍馬の石像があります。文久4年(1864年)オランダ、アメリカ、イギリス、フランスの4カ国の下関砲撃中止の交渉のため、幕府から長崎出張の命を受けた二人は、大阪から海路で佐賀関に渡り、鶴崎の徳応寺で一泊し、肥後街道を通って長崎を目指したという事です。


 

 夕暮れ迫る中、最後の訪問地「蔣山(まこもさん)万寿寺」に到着しました。「臨済宗妙心寺派の寺院で、本尊は釈迦三尊像です。徳治元年(13065代大友貞親〔さだちか〕が博多(福岡市)の承天寺の僧直翁智侃禅師を開山に請じて諸堂を建立しました。これが開基とされ、当時禅寺五山十刹の一つに数えられて寺運は隆盛したといわれています。天正14年(1586)、島津氏の兵火に焼かれ、一時廃寺となっていましたが、江戸時代初期の寛永10年(1633)に僧丹山が、府内城主竹中重義の援助を受けて現在地に再興しました。広々とした境内には本堂・庫裡・仏殿・禅堂・経蔵・観音堂・山門などが立ち並んでいます。」(大分市のHPより)




 ここは我が家からほど近く、夏場は時々散歩に来ますが、早朝の凛とした僧堂の佇まいと、読経の声に身の引き締まる思いがします。そして、大晦日には除夜の鐘を突いて、新年の安寧を祈願します。ふるまいの甘酒が冷えた身体を温めてくれます。

 

 地元におりながら、知ってはいてもわざわざ訪れることのなかった遺産を訪問でき、とても勉強になった一日でした。次回は2月に臼杵・津久見・佐伯市の県南コースの予定です。



テーマ:温泉♪
ジャンル:旅行

地獄ハイキング 堀田~観海寺~鶴見地獄コース-忘れられた温泉地獄を訪ねてー

 

 

地獄ハイキング ガイドデビュー・レポート

堀田~観海寺~鶴見地獄コース
-忘れられた温泉地獄を訪ねて-

 

平成29年12月2日

 

別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2017年度の最終回は、平成29年12月2日(土)、温泉マイスター限定で堀田~観海寺~鶴見地獄コースでの開催でした。

 この冬一番の冷え込みを記録する寒い日でしたが、空は雲一つないほどに晴れ渡り、スタート地点の市営堀田温泉からは遠く四国の佐田岬を見通すことができました。

 

 13:30に集合し、京都大学地球熱学研究施設の竹村教授をはじめ参加者9名で出発しました!!

 今回は私のガイドデビューという事で、事前に竹村先生と相談し、新コースを設定する事になりました。昭和初期の地獄観光の黎明期に、遊覧バスのコースの一部となっていた南立石地区の温泉地獄を巡るコースです。博物館のスタッフの皆さんの協力で、新コース用のガイドブックも作っていただきました。

 

 最初に向かったのは、市営堀田温泉から150mほど登った先にある「白糸の滝」です。 落差が20~30mはありそうですが、実は天然の滝ではなく、上流部にある灌漑施設の用水が断層崖を流れ落ちているものです。傍にある「白糸の滝温泉」は、火山性の噴気を水に当てて作った噴気造成泉で、夢幻の里や五湯苑などもこれに当たります。滝の下流には鉄輪むし湯の床に敷き詰められている「石菖」が栽培されていました。




 

 市営堀田温泉のすぐ下に、「市有堀田泉源」があります。別府市温泉供給事業の起点となる施設で、河川水に噴気を当てて温泉成分を溶かし込み、同時に加熱しています。別府市HPによれば、「市営給湯は、昭和12年、浜脇地区に給湯を始めたのが最初である。現在の給湯地域は、前述した浜脇線、富士見線、石垣線(以上、堀田源泉)のほか、鉄輪・石垣線(鉄輪十万源泉)、亀川線(地獄田源泉)、亀陽線(亀陽泉源泉)、競輪線(競輪源泉)、柴石線(柴石源泉)の全7路線に分かれ、給湯管の総延長は35km に達している」とあります。(『文化的景観 別府の湯けむり景観保存計画』第2部第5章第2節「温泉の給湯」より)



 かつて堀田温泉の旅館街のあった石畳の道を進むと、「堀田の堤」に出ます。平安時代に灌漑用として掘られたといわれており、急な高い崖には大きな礫などを含む地層が見られます。この地層は、現在の扇状地の形成と同じもの(アカホヤ火山灰をはさみますので)で、それが断層運動によって観察されるようになったものです。


 

 朝見川断層の断層崖に沿って急に坂道を上ると視界が開け、高さ3mはありそうな石造りの立派な不動明王像があります。この「田屋不動」は、日露戦争の戦勝を祈願して作られたものです。この辺りは西暦1600年の石垣原合戦の際に、大友軍の左翼・宗像掃部鎮統の陣が置かれました。



 緩やかな下り坂を下って行くと、「海雲寺」に到着しました。石垣原の合戦はわずか一日で雌雄を決し、敗れた大友義統は自害しようとしますが、娘婿の母里太兵衛(「黒田節」のモデルとなった黒田二十四騎の一人)に諫められ、ここで出家して黒田官兵衛に降伏しました。

 

 お寺の裏手に「長命泉」という組合員専用の共同浴場があります。毎年4月の温泉まつり期間中は一般開放されますが、噴気造成の硫黄泉で、元の水に鉄分が多いため、浴槽は赤褐色に染まっています。また、杉乃井ホテルの棚湯にこの造成泉が混合されています。

 

 杉乃井ホテルの山手奥に、「杉乃井地熱発電所」を見ることができます。左側の白い建屋が発電所本屋で、盛大に白い噴気があがっているのがタービンを冷やすクーリングタワー、その下の4本のシャワー状の設備は、温泉水を冷まして川に流すための階段式冷却器です。杉乃井地熱発電所は、わが国のホテル業界では初の実用化施設として、昭和55年11月に運転を開始しました。当初は3000kw/hの発電量を誇り、ホテル内のすべての電力を賄うことが出来ていました。しかし、地下400mにある蒸気井戸の温度が、当初の200℃から徐々に下がり、現在は135℃程度となり、出力も1900kw/hに低下、ホテルの電力必要量の3割から5割程度となっているということです。

 

 杉乃井ホテルから県道57号線に下る道は「朝見川断層崖」に沿って下り、30mを超える断層崖の高さを体感できます。ここはコンクリートの擁壁に覆われていますが、大きな礫や砂からなる層が露出している場所もあり、古い時代の堆積層であることが分かります。

 

 断層崖を下りきると前八幡児童公園に着きます。市有源泉が2本あり、噴気により市営給湯線を加熱しています。戦前ここには「前八幡地獄」があり、40mも噴き出す間欠泉だったそうです。大正13年「最新別府案内」には、「境域全体が小綺麗で且つ広く遊覧者に快い感じを与へます。無料休憩所は十六間あって、特効の蒸湯に浴するも、瀧湯に打たせるもそれは御随意です。」と紹介されています。

 

 公園の山手に立派な石の門柱があり、敷地の奥に轟々と噴気をあげる源泉口があります。これが「八幡地獄」の泉源で、噴気と共に湯が湧き出していて、湯川となって流れ出しています。指では触れられない熱さで、まさに沸騰泉です。「ブラタモリ」での近江アナウンサーの測定では99℃でした。戦前は噴泉池の他に「怪物館」なるものがあり、鬼・人魚・河童などの骨や剥製が展示されていたそうです。



 

 今回のハイキングのフィナーレは「鶴見地獄」です。霊泉寺境内に直径15mほどの池があり、やや奥よりから源泉が勢いよく湧き出しています。池の湯を指で触れてみると、沸騰状態ではなく60~70℃位の感じで、薄い塩化物泉のようです。湯の色はややくすんだ水色で、大きさといい色といい、やや地味な感がありました。





 油屋熊八が少女ガイドを乗せた地獄めぐり遊覧バスの運行を開始したのが昭和3年で、それ以前から人口に膾炙していたのは血の池地獄と坊主地獄、明治43年に観覧料と取るようになった海地獄と大正12年開園の龍巻地獄くらいだったようです。その後、昭和3年に八幡地獄、昭和6年に白池地獄の開園が続き、鬼山地獄、かまど地獄昭和30年代前半までは、今の場所ではなく血の池地獄の北山手にありました)などが続々と開園し、今の地獄めぐりの姿になりました。

 

 ちょうど2時間で全コースを踏破しました。竹村先生への感謝と、来春の地獄ハイキングでの再会を約束して、一同解散しました。初めてのガイド役は参加者の皆さんのご協力と竹村先生のフォローで、どうやら大役が果たせたようです。

なお、来年は「地獄・極楽ハイキング」にしたいと考えており、ハイキング後に温泉入浴とビールで乾杯のコースを計画中です。次回も多くの方々のご参加をお待ちしています。ありがとうございました。






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「せーので測ろう! 別府市全域温泉一斉調査」参加レポート

 

 

「せーので測ろう! 別府市全域温泉一斉調査」

参加レポート

 

 別府市・別府ONSENアカデミア実行委員会・別府市旅館ホテル組織連合会・特定非営利活動法人 別府温泉地球博物館・京都大学大学院理学研究所付属 地球熱学研究施設・大学共同利用機関法人 人間文化研究機構 総合地球環境学研究所の共催で、第二回「せーので測ろう! 別府市全域温泉一斉調査」が、平成29年11月18日(土)に全国から地球環境学や温泉・地学などの研究者を集め、温泉愛好家の協力の下に行われました。

 今季一番の寒気の襲来で由布岳・鶴見岳は初冠雪をまとい、時折、小雨交じりの肌寒い一日でしたが、集合時間の午前9時には総勢50名の参加者が、別府市中央公民館一階講座室に勢ぞろいしました。


 本調査の案内パンフレットには、「別府市の生活や観光に欠くことの出来ない温泉。湯量や泉質はもちろん、温度も大切なポイントです。湯のまち別府の「財産」をしっかりと運用・管理するためには、継続的に記録を取りながら変化の有無を確かめることが重要です。一緒に温泉の科学とフィールド調査を体験しませんか。」と、その趣旨が記載されています。

 

 11に分けられた各班でメンバーの自己紹介の後、今日の調査源泉の場所を確認し、事務局からの調査に当たっての注意点を確認したうえで、市内各所に向かって出発しました。




 我が6班は、「別府温泉地球博物館」の由佐館長を班長とし、薬剤師会の宮川さん、東京都市大学馬場研究室の3年生の伊藤君と國井さんの総勢5名です。

 6班の調査源泉は、ジモ泉共同浴場の「吉弘第二温泉」、宿泊施設の「別府パストラル」と、石垣東の個人宅、上人南の個人宅の4カ所です。

 まずは「吉弘第二温泉」を目指しますが、事前に配られた地図の読み方が悪いのか、目的地になかなか到着できません。通行中の方にお尋ねると、すぐそこだったのですが、ジモ泉のため表に看板などもなく、冷や汗をかいてしまいました。浴舎に入るとご老人がお一人で入浴中、ご挨拶をして採湯させていただきました。ここは今年新たに加わった調査源泉のです。この日の測定温度は51.1℃でした。ちなみに温泉名は近くにある戦国時代の大友宗麟配下の名将「吉弘統幸」を祀る吉弘神社に由来するようです。

 2番目の調査地点は上人南の個人宅です。ここは昨年も調査させていただいた所で、個人宅8軒が共同で所有されています。車も入れない狭い路地の奥に貯湯タンクがあり、直下の源泉から63.3℃(昨年の観測では63.7℃)の弱アルカリ性単純泉が、地下250mから汲み上げられています。人懐っこい白いワンちゃんが我々を歓迎してくれました。


 由佐先生と私が計測し、宮川さんが調査結果を報告用紙に記入、WEBでの本部への報告は学生の伊藤君がテキパキとやってくれます。國井さんも器具や容器をタイミングよく渡してくれ、チームワークもばっちりです。

 次は石垣東の個人宅で、宅地の奥まった場所に独立した浴舎がありました。1m×1mぐらいの小さく深い浴槽で、浴槽への注ぎ口で測定しましたが、昨年が55.5℃で今年は46.2℃は測定に誤差が生じているのかもしれません。所有者の方にお話を伺っていたら、おばあちゃんが突然、由佐先生を「ブラタモリに出ちょった人やなぁ」とおっしゃいました。さすがは人気番組と感心した一幕でした。この時点で11:30を過ぎていましたので、急いで次の場所に向かいました。

 最後は東荘園の「別府パストラル」で、ここは今年から調査地点に加わった宿泊施設です。フロントの担当の方にご挨拶すると、メンテナンスを請け負っている会社の方を呼んで下さいました。温泉棟の隣に大きな貯湯タンクがあり、2本の自家源泉の湯をここで混合して、浴槽に流しているとの事でした。分析書によれば「ナトリウム・マグネシウム-炭酸水素塩泉、51.2℃、PH8.0、成分総量1253㎎」ですが、この日の測定温度は46.4℃でした。


 横浜からわざわざ手伝いに来てくれた若い2人のリクエストで、大分名物のトリ天定食の昼食を取って、公民館にもどり電気伝導率の測定を行いました。いずれも150ms/前後で、成分量の少ない泉質であることが確かめられました。

 

 午後からは主催者の総合地球環境学研究所の遠藤 愛子 準教授の挨拶、別府市副市長の阿南寿和氏の挨拶に続き、由佐先生の「別府温泉の源(もと)」と題するご講演を拝聴しました。次に大分県生活環境部保護推進室の担当者による「温泉資源監視基礎調査事業の概要」に関する説明と、3地点のモニタリング状況の推移の報告がありましたが、この担当者は……。


 最後に龍谷大学の山田講師より、今回の調査結果の速報報告がありました。その中で、温泉井戸の水深と温度、泉質の分布を示す3Dグラフが興味深く、今後のためにも「深さ」の視線は重要だと強く感じました。


 最後に夜の懇親会での、九重町の温泉湧出量は数年後には、別府市を抜く事になるという驚愕の話題を聞きました。平成28年3月末の県の統計では、別府市が87,347㍑/分で、九重町が83,742㍑/分で、すでに由布市を抜き、別府市に肉薄しています。現時点で地熱発電のために九重町に届出が出されているのは、資源調査段階にあるもの5件、掘削段階にあるもの6件、発電所建設段階にあるものが2件となっていました。

 地熱発電で利用されるのは熱水ではなく、噴気です。未利用の熱水を地中に戻すなどの対策を講じて、温泉資源の枯渇などという憂慮すべき事態にならないことを願うばかりです。そして、今回の調査の様な、継続的なモニタリングを通じて、温泉資源の保護対策を実施しなければならないと思います。




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