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Author:海心堂
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地獄ハイキング 浜脇コース 参加レポート

 

 

地獄ハイキング

浜脇コース・レポート

 

 別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2017年度後半の第一回は、平成29年10月7日(土)、温泉マイスター限定で浜脇コースでの開催でした。

 天気予報に反してうっすらと霞のかかったような空模様の下、東別府駅前に13:30に集合し、京都大学地球熱学研究施設の竹村教授、北九州市から参加の明石ご夫妻をはじめ参加者6名と事務局の杉本さんの総勢8名で出発です!!


 

 東別府駅は1911(明 治44)年、豊州鉄道の浜脇停車場として開業し、1934(昭和9)年に東別府駅に改称されました。この頃の浜脇温泉は湯量が減少し、かつての賑わいは無くなっていたようで、当時の今日新聞の記事によれば、「浜脇駅の東別府駅改称問題は再三浜脇町民より叫ばれ之が実現方を主務省に陳情しつゝあり、市会にも即刻実現を図るべく議決され(中略)愈々十五日より『東別府駅』と改称することになった。」とあります。そのため趣ある木造駅舎が残され、市指定登録有形文化財になっています。近年では、新垣結衣・三浦春馬主演の映画「恋空」のロケ地になった事で話題になりました。

 

 市営浜脇温泉に向かう途中の住宅街の一角に「丸井戸」があります。井戸を見守るお大師様に「弘化4年(1847)年」と刻まれており、古くから地域住民に利用されてきた井戸です。中を覗いてみると、地下4~5mほどの深さの所に水があり、この辺りが海抜3.4mなので、ほぼ海面の同じ高さで真水が湧き出していることになります。


少し歩いて市営浜脇温泉前 の広場に到着しました。入口近くの石造りのアーチは、建て替え前の浜脇温泉の玄関で、床のタイルで当時の浴槽の位置や大きさが偲べるようになっています。ちなみに浜脇高等温泉は湯治客向けであったためぬるめの湯で、浜脇温泉は地元民向けに熱めになっていたそうです。


 朝見川の河口付近にやってきました。干潮の時間帯で水位が低い状態でした。この辺りでは干満差が2~3mあり、もし津波が押し寄せた際、干潮時と満潮時でその影響に大きな差がある事を改めて学びました。


 JRの線路を跨ぐ歩道橋を渡ると浜脇中学校です。この辺りの日豊線は朝見川断層の崖下に敷設されていて、この断層帯が動いた時の危険性を感じました。

 浜脇中学校は立派に石垣と石段の上に立っていますが、中世にはここに「大友館」が置かれていたと言われています。


 豊後大友氏の初代能直が鎌倉幕府から豊後守護職に任ぜられましたが、2代親秀までは豊後に下向していなかったようです。、3代頼泰は元寇の警護のため豊後に下向しましたが、上陸したのは浜脇の浜であったと伝えられています。また、元寇の戦で傷ついた武士を別府の湯で湯治させたという記録があるようです。

 20代義鑑の後継者を巡っての内紛の、いわゆる「二階崩れの乱」の折に、21代義鎮(宗麟)はここ大友館で湯治をしていたと伝えられています。

 急坂を登って山家地区の崖にたどり着きました。この崖は由布川火砕流によって出来た崖で、約60万年前の火山活動でできました。軽石やガラス質の雲母の混じった堆積物で出来ており、触ってみるとザラザラとした壊れやすい岩でした。


 このジオツアーで竹村先生から繰り返し教えていただいたのは、別府の岩石や地質、その結果としての地形は、第四紀の主として4度に渡る火山噴火や火砕流で出来ているという事です。60万年前の由布川火砕流、40~50万年前の乙原や小鹿山・雨乞岳、鹿鳴越山の輝石安山岩の噴出、30万年前には高崎山や実相寺山が噴火して角閃石安山岩を噴出し、直近では10万年に鶴見岳・伽藍岳・由布岳の大噴火が起こり、この折に噴出されたのが「別府石」で、正式名は角閃石安山岩です。

 浜脇中学校まで戻り、ここから東に向かうと河内川沿に河内集落があり、その先に浜脇の市街地を見下ろすビューポイントがあります。道中、あちこちで急傾斜地危険地域の注意書きが掲示されており、いかにも山崩れや地滑りが起きやすい場所である事が感じられます。


 河内集落まで戻り、急な小道を下ると、別府八景(日出城下海岸、由布仙境、観海寺乙原高台、鶴見ケ丘、高崎山、実相寺山、別府東公園、柴石渓流。三勝は志高湖、内山渓谷、仏崎遊園。)に比喩された「河内渓谷」の入り口があります。渓流沿いの細い道を進み、狭い橋を渡った先に、稚拙でちょっとユーモラスなお不動様が奉ってあるお堂がありました。さらに進み急な崖を下ると、高さ10m程の二丈の滝が現れました。前日の強雨で水量が増しており、なかなか迫力のある滝ですが、普段はこれほどの水量はないそうです。滝壺のすぐ上に白い岩の層が見られますが、由布川火砕流より更に古い時代の浜脇層の堆積物で、縞模様がハッキリと見えました。この層からは別府では珍しい植物の化石が見つかる事があるそうです。








 ここから河内川沿いを下り、元の東別府駅までもうひと頑張りです。駅前広場でお互いの健闘を讃えて、解散となりました。これまで参加したハイキングコースの中で、最も距離が短いコースでしたが、かなりのアップダウンがあり、変化に富んだ楽しいコースでした。参加者の皆さんお疲れ様でした。

 次回、10月29日(土)は、京大ウィークスに新コース「別府湾沿いの海岸地域」が開催されます。また、12月2日(土)には、私のガイドデビューで、「堀田〜観海寺〜鶴見地獄-忘れられた温泉地獄を訪ねて!」を開催します。奮ってご参加ください。 

 




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「みんなで探そう二酸化炭素泉」 参加レポート

 

 

「みんなで探そう二酸化炭素泉」 参加レポート

 

 別府市とNPO法人別府温泉地球博物館の主催で、9月30日(土)に「みんなで探そう二酸化炭素泉」と題したイベントが開催されましたので、その様子をレポートします。

 当日は秋晴れの好天に恵まれ、別大国道からは右手に広がる別府湾、前方の別府の街並みとその先の鶴見山系、爽やかな青空と白い雲が広がっていました。



 会場で配布されたレジュメには、「近年の状況として、2014(平成26)年7月の療養泉の定義が改訂される前の泉質数は、11種類中10種類でした。現在、別府温泉における療養泉の分類(いわゆる泉質数)は、10種類中7種類という事で、二酸化炭素泉はこの中に含まれていないのですが、大分県鉱泉誌1970によると、少なくとも15か所存在したことが確認できます。そこで、今回、二酸化炭素泉を探してみようというのが今回の企画です。」と、このイベントの目的が記されていました。

 

 午前10時より、京都大学名誉教授の由佐悠希先生による「別府の二酸化炭素泉について」と題する講演がありました。二酸化炭素泉ができるのはプレートテクトニクス理論で説明できるそうです。要約すると、「2億年もの時間をかけて太平洋を移動してきた海洋プレートは、アジア大陸のプレートにぶつかり、その下に沈み込んでいる。長湯温泉の炭酸ガスはマグマ起源で、その炭素の約70%は海で生成された炭酸塩起源である事がわかっている。プレートに乗っていた堆積物中のサンゴや貝殻などのCOが、マグマに取り込まれた炭酸ガスとなったもので、別府でも同様の事が考えられる。」との事でした。

 また、1970年発刊の「大分県鉱泉誌」によれば、市街地の流川下流域の旧南町・北町・太呂辺 (現在の楠町・中央町・田の湯町?) に最高1,654mgの遊離二酸化炭素を持つ源泉が存在していたことが記録されているとの説明がありました。



 さらに、別府における各種温泉水の流動経路に関する研究から、ナトリウム-炭酸水素イオンを多く含む温泉水は朝見川断層帯の地下にあることがわかっており、途中その流路が南東から北東に変わるのですが、これが旧南町・北町・太呂辺と一致するとの説明がありました。(「温泉水の流動経路」図は別府市のHPよりお借りしました。由佐先生の講演の要約に誤りがある場合は著者の責任です。)

 

 続いて別府市温泉課の中村さんより、「二酸化炭素泉存在の仮設」に関する説明がありました。市が2016年に行った調査によれば、①ラクテンチ内の源泉から800mg/kgを超えるサンプルが採取できた、②大分県鉱泉誌1970では、市街地に二酸化炭素泉が収集していた記録が残っている、③ラクテンチも別府市街地の源泉も、赤茶けた鉄分を含む温泉である傾向が伺える、との指摘がありました。

 そして、「朝見川断層帯上にある乙原地区と市街地は、二酸化炭素泉が湧出している可能性が高い!」との仮説の下に、仮説を立証するための条件として、

 ①朝見川断層帯上にある源泉である事、 

 ②自噴泉であること、

 ③源泉温度が高くないこと(40℃未満が望ましい)、

 ④源泉の深度が浅いこと(おおむね100m未満)、

 ⑤動力(コンプレッサーによる揚湯)を使用していないこと、または停止する事が出来ること、

 ⑥源泉あるいは源泉に極力近い密封された環境から温泉採取が可能なこと(採取条件によって、数値が大きく変動する)

の6点の提示がありました。


 ここから3グループに分かれ、調査地点の概況等を確認しました。今回の調査では、大分県薬剤師会検査センター様の協力を得て、現地で遊離二酸化炭素の測定が出来ることになっています。出発に先立ち、薬剤師会の検査技師さんから測定方法についてのレクチャーを受けました。



 

 私を含め6人のメンバー(由佐先生もメンバーのお一人です)とともに、乙原川沿いの自然湧出温泉(「乙原谷の湯」と呼ばれ、20数年前までは近隣の住民が利用していたが、土砂崩れで橋が流されたため、現在は利用されていない)と、乙原集落の個人宅敷地内にある温泉を調査する事になりました。

 車に分乗してラクテンチの乙原ゲートを目指して出発。現地ガイドのラクテンチ社員の方と、今日新聞社の女性記者と合流し、一路「乙原谷の湯」を目指します。





 急な坂を乙原川の河原まで下り、流れの速い渓流を渡った先に、湯小屋の残骸らしきものが見えてきました。近づいてみると、枯れ葉が堆積しているものの、コンクリート造りの浴槽に間違いありません。やや白濁、鉄分が付着している様子が見られ、期待に胸が膨らみます。手を浸けてみると、アチャ、かなり熱めです。浴槽の一番奥の湯中に小さなほら穴が開いていて、そこから湯が湧き出していました。測定の結果、湯温46.4℃、PH6.76、遊離二酸化炭素176mg/kgでした。金気味臭はほとんどなく、かすかに硫黄臭が感じられました。残念ながら、ここは二酸化炭素泉とは言えないようです。











 二十年以上も人の手が入れられていないにもかかわらず、コンコンと湧き続けていた源泉に愛おしさを感じました。また、ちょっと整備をすれば、入浴可能ですが、現状ではアクセスに危険があり、復活させるのはかなり困難の様です。

 

 次に向かったのは乙原集落の入り口付近の民家で、乙原山の急な斜面に沿って家が建てられています。近隣の住民が共同利用している浴室は、1m四方の小さな浴槽が一つだけで、100mほど奥の源泉から引き湯をしているとの事でした。この浴槽も鉄分で赤く染まっていて、がぜん期待が高まりますが、手の浸けてみるとアチチと声が出るほどに高温です。湯はほぼ無色・透明で、弱い金気臭はありますが炭酸味は感じられません。




 持ち主の方の案内で源泉のある場所に向かいました。狭い通路に沿って引き湯のパイプが続いている先に源泉地があり、通路から10mほど高い場所に湯貯めの桝があり、中を見ることはできませんでしたが、崖の奥にパイプが突っ込んであり、そこから湯が湧き出しているとの事でした。通路脇にももう一つの小さな桝があり、ここからは溢れるほどに湯が溜まっていました。測定の結果、湯温57.2℃、PH7.08、遊離二酸化炭素137.6mg/kgでした。


 この通路の下に、草木の生えていない地獄地帯のような場所があり、小さな噴気孔からガスが噴き出す様子が観察できました。この一帯は地表近くにかなりの熱源があるようで、温泉の源泉も一つではなく、複数の小さな自噴泉があるようです。



   

 フィールドワークはこれで終了、市役所に戻り報告会です。

 もう一つのチームはラクテンチ内の2カ所を調査し、特に2016年3月の調査で808.6mg/kgの遊離二酸化炭素が観測された源泉に期待が集まりましたが、200mg代に留まったとの報告がありました。

 もう1チームは市街地楠町の個人宅と、流川通の松下金物店内の温泉を調査しましたが、いずれも200mg代以下でした。

 

 という訳で、今回の6カ所の調査地点で二酸化炭素泉を見つける事は出来ませんでした。

 しかし考えてみれば、人が利用している温泉は、それが別府にある以上、それなりの湯温があるはずです。浜脇の東町温泉の敷地内の井戸は38℃ほどの湯が湧き出していますが、この温度では組合員の方々は温泉とは言わず、水だと言います。その意味で、湯温の低下で使われなくなった市街地の個人宅の自家源泉が有力なのかもしれません。

 また、朝見川断層上のこれまで見向きもされてこなかった低温の自噴泉が、実は炭酸泉だったという事があるかもしれません。そのあたりを想像しつつ、次の作戦を立てて、再チャレンジに臨みたいと思います。

 最後にご協力いただいた大分県薬剤師会検査センター様および別府ラクテンチ様、源泉所有者の皆様に感謝いたします。



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「2017おおいた遺産」モニターツァー 宇佐市・豊後高田市・国東市編

 

 

2017おおいた遺産」モニターツアー

宇佐市・豊後高田市・国東市編

 

 一般社団法人大分学研究会では、今年度「おおいた遺産」を巡るモニターツアーを5回シリーズで開催しています。その第二回は宇佐市・豊後高田市・国東市編で、平成29年8月27日(日)に開催されました。

 「おおいた遺産」とは、大分合同新聞社が創刊120年を記念して、2007年から3年間にわたり、一般読者の489件の応募の中から、辻野功別府大学教授(当時)を座長とする選考委員によって選定された、未来に残したい大分県の景観、祭、建築など120件の遺産を言います。

 

 大分駅前を8:30に出発したバスは、別府北浜でここからの参加者と合流し、別府ー宇佐道路を進み、院内インターから最初の訪問地の「宇佐神宮」へ向かいました。


 宇佐神宮の駐車場で出迎えてくれたのは、本日の案内人の文殊仙寺の秋吉文暢副住職です。寄藻川にかかる神橋を渡り、清々とした参道を進むと大鳥居がみえてきました。宇佐神宮の鳥居の特徴は、笠木(一番上の横木)と島木(笠木のすぐ下の横木)の反りが強く、貫(下の横木)が貫通し、島木の下に黒の台輪がはめられている事だそうだ。




 能楽殿の浮かぶ菱形池には古代ハスが咲き乱れ、我々を出迎えてくれました。上宮へ参道が大きく左に曲がる所の右奥に、宇佐八幡の神仏習合の象徴である弥勒寺(宇佐八幡の神宮寺)の遺構があります。創建当時の弥勒寺は金堂、講堂、東西の三重塔を回廊で囲む壮大なもので、奈良の薬師寺の伽藍配置と同一のものです。明治維新の廃仏毀釈で廃寺となるまでは、表参道の左側に伽藍が甍を連ねていたそうです。


 養老4年(720年)隼人が反乱を起こすと、八幡神は大和朝廷軍とともに南九州に赴き、3ヵ年を費やし抵抗する隼人を平定します。その際に100人の隼人の首を持ち帰り、近くの「凶首塚」に葬りました。そして、隼人の霊を慰めるために放生会を創始しますが、殺生の罪を悔いた八幡神が仏に救いを求め、これが神仏習合のはじまりだそうです。
 鬱蒼としたイチイガシの原始林の中を登って行くと、壮麗な西大門と一の鳥居があり、その先が国宝の宇佐神宮本殿および県指定文化財の南中楼門(勅使門)です。回廊の奥には左から、八幡大神(応神天皇)を祀った一之御殿、比売大神を祀った二之御殿、神功皇后を祀った三之御殿が並んで建てられています。


 本殿は「八幡造」といい、切妻平入の建物が前後につながった形式で、前後の建物は黄金の雨樋で繋がれており、「宇佐の金樋」といわれます。


 

 先を急ぎましょう。次に向かったのは豊後高田市「昭和の町」の平清水旅館で、名物豊後高田蕎麦の昼食をいただきました。揚げたての天ぷら、新鮮なお刺身、挽き立て・打ちたて・茹でたての春そばを二八でいただきました。食後に昭和ロマン蔵を散策して、次に向かいました。

 

  次は田染の蕗(ふき)地区にある国宝「富貴寺」です。平泉の中尊寺金色堂、宇治の平等院鳳凰堂とともに日本三大阿弥陀堂に数えられ、九州最古の木造建築物です。


  大分合同新聞社刊「おおいた遺産」に次の記述があります。「他の満山寺院と同じく仁聞の開基とされ、カヤの一木で作られたとの伝承があるが、大堂は平安後期の建築。宇佐神宮の大宮司家の祈願所として守られた。明治末の解体修理の後、先の戦争で近くに落とされた爆弾で破損するなど一時は荒れていた。修復して1952(昭和27)年に国宝に指定、60年代半ばに再修理された。」

 堂内には本尊の阿弥陀如来坐像(国の重要文化財)や仏を取り囲むように描かれた阿弥陀浄土図などの板壁画(国の重要文化財)があり、平安の人々の浄土への思いが感じ取れました。

 

 次に向かったのは、半島のほぼ中央に位置する「両子寺」です。駐車場から境内に入ると、正面に不動明王を祀った護摩堂があります。堂内で住職の説明を聞いた後、休憩所で冷たい飲み物や菓子・スイカの接待があり、一息つきました。


 木立に囲まれた参道を下り、中門を過ぎると、高さ2m以上もある石造の仁王像が現れます。


「おおいた遺産」では、「仁王像は半島で最も威容を誇るとされ、1811(文化2)年の作。山門もまた、半島で最も古いとされる。参道は桜から夏の緑と移り、秋には紅葉のトンネルとなる。そして冬、仁王像は雪の綿帽子をかぶり、ちょっぴり穏やかな表情を見せる。」と記されています。

 

 この後、最後の訪問地の「文殊仙寺」に向かいました。峨眉山文殊仙寺は日本三文殊の一つに数えられ、1370年前に役行者によって開かれたとされる国東半島最古刹の寺院です。

 国東六郷満山は、養老2(718)年に宇佐八幡の化身である仁聞菩薩により開かれたとされ、来年が開創1300年にあたります。

 本尊の文殊菩薩は、中国の五台山から迎えたといわれ、12年ごとの卯年に御開帳される秘仏ですが、六郷満山1300年祭にあたり、6年目の今年は特別に中開帳されています。


 380段の急な石段を上った先に立つ本殿文殊堂で、特別に護摩焚き祈願が行われ、一同汗だくになって護摩の火に祈りを奉げました。本尊文殊菩薩は木造の獅子にまたがる金銅製の小さなお姿で、岩屋の下の厨子に納められていました。


 

 お天気に恵まれ、というか恵まれ過ぎていささか暑かったのですが、副住職の丁寧な案内のおがげで、「神仏習合」というものを体感できたツァーでした。

                        



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「2017おおいた遺産」モニターツアー 別府市・日出町編

 

 

2017おおいた遺産」モニターツアー

別府市・日出町編

 

 一般社団法人大分学研究会では、今年度「おおいた遺産」を巡るモニターツアーを5回シリーズで開催しています。その第一回は別府市・日出町編で、平成29年6月25日(日)に開催されました。

 「おおいた遺産」とは、大分合同新聞社が創刊120年を記念して、2007年から3年間にわたり、一般読者の489件の応募の中から、辻野功別府大学教授(当時)を座長とする選考委員によって選定された、未来に残したい大分県の景観、祭、建築など120件の遺産を言います。

 

 大分駅前を8:30に出発した貸し切りバスは、昨夜からの激しい雨の影響で、低く垂れこめた雨雲に覆われた別府市を目指します。


 別府駅前でここからの参加者と合流し、最初の訪問先の青山町にある「聴潮閣」へ向かいました。「聴潮閣」は銀行家で別府市商工会議所の初代会頭を務めた高橋欽哉により、1929(昭和4)年に自邸および迎賓館として建てられたものです。当初は浜脇の海岸沿いに建てられましたが、1989(平成元)年に現在地に移築され、2001(平成13)年には国の有形登録文化財に指定されています。2015(平成27)年末までは、洋画家の佐藤渓の作品を展示する美術館として一般公開していましたが、現在は閉館しており、この日は特別に見学させていただきました。


 木造2階建入母屋造りの主屋は、伝統的な和風建築ですが、一階にはアールデコ様式の応接間もあります。それほど広くはない中庭はモミジを中心とした木々が植栽され、落ち着いた雰囲気に包まれていました。二階の座敷は両側に広縁を持ち、窓の建具が戸袋にすべて収納できる開放的な造りです。


 

 次に向かったのは「内成の棚田」で、 平成11年度に農林水産省が認定した『日本の棚田百選』 に選ばれています。ここの棚田の歴史は古く、鎌倉時代の古文書に記載があるそうで、1000年以上も前から耕作されていたようです。9集落40軒の農家が、42haの田んぼを耕作しており、先人の知恵と労苦に敬意を表するとともに、これから先もこの美しい景色が残されてゆくための様々な支援が必要なのだろうと思いを致しました。


 

  薄暗い木立の中の道をぬけ、広々としたゴルフ場を過ぎて、次の目的地の「神楽女湖」に着きました。ここには80種、15,000本のハナショウブが植えられ、梅雨のこの時期に見頃を迎えていました。「湖」と名付けられているが、おじか山の麓に形成された中間湿原で、標高600m、周囲約1kmの湿地帯には、ヒツジグサ・オギなどの群落がみられ、カイツブリ・カワセミ・キセキレイなど野鳥も数多く生息しています。遊歩道をのんびり歩いていると、カイツブリの子育ての様子が観察できました。


 

 この後は鉄輪で地獄蒸しの昼食を取った後、大観山の湯けむり展望台で、「鉄輪温泉の湯煙」と別府扇状地を形成している鉄輪断層崖と堀田・朝見川断層帯を見学し、「明礬温泉の湯の花小屋」を目指します。


     

 「別府明礬温泉の湯の花製造技術」は2006(平成13)年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。文化庁のHPによれば「この技術は、湯の花小屋という製造施設をつくり、その内部で噴気と青粘土を利用して湯の花の結晶を作り出す技術であり、製品である湯の花は薬として利用されたり、入浴剤として利用されてきた。(中略)湯の花が結晶化する過程をみると、まず噴気が藁と土の層を上昇する途中で冷えて水になる。それと同時に噴気に含まれていた硫化水素や亜硫酸ガスが酸化して硫酸となり、この水に溶けこむ。それが上昇して青粘土の層に入ると、青粘土に含まれているアルミニウムや鉄と化合して硫酸塩となり結晶として表面に現れる。これが明礬温泉で湯の花と呼ばれているものである。」とあります。つまり、明礬の湯の花は水に溶けやすく、入浴剤として優れた性質を持っています。草津温泉などで売られている湯の花は、水溶性でないためあまり湯に溶けず、この点がここのものとは全く違います。


 

 別府市での視察はここまでで、これから日出町に向かいます。十文字原を過ぎて鹿鳴越山の山道に入ると、雨脚が急に強くなり、予定していた「ザビエルの歩いた道」の見学を断念し、「日出殉教公園と日出藩成敗場跡地」を目指します。


 1619(元和10)年、日出木下藩の家老:加賀山半左衛門は藩主よりキリスト教の棄教を命ぜられますがこれに従わず、5歳の息子のディエゴとともにこの地で処刑されました。平成19年に半左衛門親子がカトリックの福者に列せられ、その記念にここに殉教公園が作られました。江戸時代初期のカトリック信仰の記録はそのほとんどが焼き捨てられて、外国人宣教師の記録がヨーロッパに僅かに残されているだけですが、1599年の豊後のキリシタンの数は約12,000人と報告されているようです。

 

 次に向かったのは日出暘谷城三の丸跡に立つ国の重要文化財の「的山荘」です。ここは山香町の馬上金山の採掘で財を成した成清博愛が1915(大正4)年に建てた別邸で、文化庁HPによれば「主屋は大勢の来客を接待するための大型の広間を持ち,生活のための書斎部と家政部それぞれを海に向けて配し,景観を活かした配置とする。全体を堅実な和風の意匠でまとめているが,外観には入母屋造を多用して巧妙な階調をつくり,内部は良材による精緻な造作で格調の高い空間を達成するなど,意匠的に優れている。土蔵や正門などの附属施設や大規模な庭園も,近代における雄大な別邸の有り様を示すものとして高い価値を有している」としています。




 

 本日最後は日出城址です。日出藩3万石の初代城主の木下延俊は、豊臣秀吉の正室おねの兄で、細川忠興(ガラシャの夫)の妹加賀を正室としました。関ヶ原の合戦では義兄忠興の助言に従い徳川方に就き、1601(慶長6)年に日出に入国すると直ちに築城に取り掛かり、3層の天守閣と5つの二層櫓や平櫓が築かれました。廃藩置県に伴いすべての建物が取り壊されましたが、鬼門櫓だけが取り壊しを免れ、領内仁王の中村家屋敷内に移築されており、平成25年に場内の現在地に復元されました。風水の鬼門である東北の隅を欠いた全国的にも稀な建築物です。


 

 このツアーでは別府市教育委員会の永野さんと、日出町観光協会の方が同行していただき、専門的な説明があり、よい勉強になりました。次回の開催は8月27日で宇佐市・豊後高田市を巡ります。

                



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地獄ハイキング 実相寺山・鉄輪コース・レポート

 

地獄ハイキング

実相寺山・鉄輪コース・レポート

 

 別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキングは、平成29年6月10日(土)、温泉マイスター限定で実相寺山・鉄輪コースでの開催でした。

 梅雨の晴れ間の好天に恵まれ、実相寺山平和記念搭入口バス停に13:30に集合し、京都大学地球熱学研究施設の竹村教授、本日ガイドデビューの若松君子さん、参加者5名と事務局の杉本さんの総勢8名で出発進行!!

 

 

明豊高校野球部の練習グランドを横目に見ながら標高169mの実相寺山の頂上を目指しますが、いきなりの上り坂に息が切れます。林の中の道路を抜けると、日本山妙法寺の本堂と仏舎利塔が見えてきました。


 「仏舎利」とは、本来、釈迦の遺骨・遺灰・毛髪等ですが、大変に貴重なもので入手も困難な事から、遺骨によく似た宝石や貴石等を代替品とする事が多い様です。また、日本各地の寺院の五重塔や三重塔、金閣寺の舎利殿なども仏舎利塔に当たります。

 ここからの眺めは雄大で、一番奥に鶴見岳・内山・伽藍岳の峰々が連なり、その手前には大平山(通称 扇山)のなだらかな稜線に続く別府扇状地が広がり、南には堀田・朝見川断層崖の連なりが見渡せました。


  実相寺山は約30万年前の噴火で形成されたドーム型火山の跡で、大観山や高崎山と同時代の古い時代の火山です。

 また、大友家と黒田家が争った石垣原合戦においては、黒田軍の 本陣が置かれた事でも知られています。ちなみに大友軍の本陣は南立石の海雲寺あたりに置かれました。

 大平山は地震による山体崩壊の跡と考えられ、人の手により毎年、山焼きが行われてきたため、今の様な姿になっているとの説明がありました。

 

 山を下り、実相寺山の山裾を鉄輪方面に進むと、噴火当時の溶岩が冷え固まった角閃石安山岩の露頭が見られます。


 この先に温泉の噴気が見られます。この辺りの源泉は噴気沸騰泉で、ここで見られるような「気液分離装置(セパレーター)」によって熱水だけを取り出し、温泉として各戸に配湯されています。


 別府市の鉄輪・明礬・北中に広がる「湯けむり・温泉地景観」は国の重要文化的景観に選定されていますが、これは「地域における人々の生活又は生業及び当該地域の風土により形成された景観地で我が国民の生活又は生業の理解のため欠くことのできないもの(文化財保護法第二条第1項第五号より)」と規定され、天然記念物のような人の手の入っていない文化財とは違い、温泉資源の多面的な利用の在り方を示す文化財といえます。

 

 ここから馬場、新別府の住宅街を進み、春木川河畔に出ました。「新別府」は大正3年から昭和初期に温泉付き高級別荘地として一区画300坪で分譲されました。


 「別府の地獄を観光資源として最初に活用したのは鉄道技師の千寿吉彦氏で、明治末期に日豊本線の敷設工事で来別していた。「千寿はこのような扱いを受けていた海地獄を別荘地の泉源という全く新しい発想によって買収したのである。恐らく新たな湯口を掘削するよりは経済的にも有利であったと考えられるし、この頃には既に規制の網も掛かり始めていたことも背景にあったであろう。(中略)明治43年(1910)海地獄を覗き見していた湯治客に対して、海地獄の管理人が二銭を徴収したことが始まりとされる。つまり、これまでの「厄介もの」が「見せ物」に転換したのである。」(別府市編 「文化的景観 別府の湯けむり景観保存計画」より)


 春木川を渡り、北中の噴気沸騰泉の源泉を見て、鉄輪の旅館街に入ります。NHKの「ブラタモリ」で紹介された市営「熱の湯温泉」裏の断層崖を見て、旧富士屋旅館前の「別府石」の石畳を見学しました。






 「かつて別府のいたるところには、鶴見岳をはじめとする火山から、火砕流や土石流として、流れ出してきた安山岩がころがっていました。現在も、道路工事や宅地造成などで土地を掘り返すと、安山岩の転石がたくさん出てきます。人びとは、それらを別府石と呼んで大事にし、いろいろな石材に使ってきました。」(別府地球博物館編「別府温泉辞典」より)

 

 次に鉄輪温泉を拓いたと言われる一遍上人開山の温泉山永福寺と境内の源泉を見て、ゴールの大谷公園に到着しました。

 

 大谷公園は浄土真宗大谷派の22世法主の大谷光瑞(鏡如上人)示寂の地です。光瑞は明治35年から三度に渡り西域探検隊を結成し、シルクロードの仏跡の発掘調査を行いました。弱冠39歳で法主を辞任しますが、実は西域探検には多額の費用がかかり、これが西本願寺の財政を危機に陥れ、その責任を問われ罷免されたのが真相のようです。また、インドの古代仏教建築を思わせる石造風の外観の東京・築地本願寺は、光瑞が建築史家の伊藤忠太に設計を依頼し、建築したものです。戦後、病を得て別府で療養し、昭和23年に鉄輪のこの地で亡くなりました。


 今回は最初の実相寺山の登りを除いては、ほぼなだらかな下りの全長4,000mほどのコースでした。岩石に詳しい若松さんの案内で、楽しく歩き切る事が出来ました。参加者の皆さん、お疲れ様でした。
                       



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