海心堂の温泉逍遥

日本一のおんせん県おおいた(別府八湯温泉道、奥豊後温泉文化伝)を中心に、九州の温泉(九州温泉道)の入湯記録

地獄ハイキング 「別府~朝見コース」参加レポート(後編)

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地獄ハイキング 「別府~朝見コース」参加レポート

温泉マイスター シニアマイスター  甲斐 心也


 さらに南に進むと目の前に急な崖が現れました。これが朝見川断層の断層崖です。樹木に覆われて露頭を見る事は出来ませんが、扇状地が正断層によって沈み込んだことが実感できます。



 断層崖を上る坂道をたどって行くと、素晴らしい眺望が開けます。一番手前に日豊本線の線路、市立南小学校、朝見川、市街地の街並みが広がっています。ヘアピンカーブを曲がってさらに登ると、断層崖の露頭がありました。下層には水成堆積層の浜脇層があり木の葉の化石が出たりしますが、その上に約60万年前に噴出した由布川火砕流の堆積物が見られます。





 朝見川を渡って「永石温泉」で一休みです。毎日の記者さんが別府の温泉資源保護などについて、竹村先生に取材をされていましたが、どんな記事になるのでしょうか。



 永石温泉から竹瓦温泉に向かう途中に「後藤理髪店」の看板を掲げる古い建物があります。ここの二階が住宅地図最大手の「ゼンリン」の発祥の地です。

 ()ゼンリンのHPによれば、

1948年(昭和23年) 4月 創業者 大迫正冨らが別府市に後の善隣出版社を創業

  1949年(昭和24年) 6月 創業初の刊行物、観光小冊子年刊別府を発行

  1952年(昭和27年) 6月 初版住宅地図別府市住宅案内図を発行」

と、創業期の歴史が記されていました。



 流川通り4丁目に「伊能忠敬測量碑」があります。江戸時代の別府の主要街道は、小倉街道で、この碑のあるのがそこに当たります。碑文には以下ように記載されています「往時この街角に高札場あり徳川幕府禁制を掲ぐ 文化七年(二月十一日)伊能忠敬来りて測量をなしこの処に国道元標を建つ 江戸日本橋より二百六十三里(1052KM)この元標より西一丁目に庄屋宅ありと」



 日本最古の木造アーケードの竹瓦小路を抜けて「竹瓦温泉」に到着しました。竹瓦温泉は1878(明治12)年に創設された別府温泉を象徴する市営温泉です。現在の建物は1938(昭和13)年に建設されたもので、文化遺産オンラインHPによれば、「中央は入母屋造の2階建で,1階が休憩所や脱衣所,2階が床・棚付の畳敷大広間になる。浴室は東側に突出する平屋建で,西側の寄棟造の平屋建は砂風呂になる。変化に富んだ外観や正面の唐破風玄関など,重厚かつ豪華なつくりで,温泉街の象徴的な存在である。」と説明されています。



 竹瓦温泉の裏手に「波止場神社」があります。20194月に「神様、仏様、稲尾様」とよばれ、西鉄ライオンズで鉄腕投手として活躍した稲尾和久氏のモニュメントができました。生家が神社のすぐ近くで、子供の頃は境内でキャッチボールして遊んでいたご縁で、ここにモニュメントが設置されました。



 駅前通りを上ると「伊予銀行別府支店」があり、そこに天然温泉の手湯があります。かつては銀行内に行員用のお風呂があり、その源泉として掘削されたのでしょう。今では湯温が下がり、手湯として通行人に提供されています。湯口では二酸化炭素の泡がぷかぷかと立ち上っています。この界隈に炭酸泉があったという記録があり、その名残のようです。



 ここまでで今回の全行程を完了しました。北浜海岸通りを巡るコースは省略しましたが、それでも10分の時間オーバーでした。参加者の皆さん本当にお疲れ様でした。


 次回は秋の開催で、9月、10月、11月を予定しています。新コースを続々と登場させる予定ですので、奮ってご参加ください。

地獄ハイキング 「別府~朝見コース」参加レポート(前編)

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地獄ハイキング 「別府~朝見コース」参加レポート(前編) 

温泉マイスター シニアマイスター  甲斐 心也

 NPO法人別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2019年度の春第3回は、令和元年6月16日(日)、「別府~朝見コース」での開催でした。前夜の激しい雨も上がり、時折強い風の吹く中での開催でしたが、そのおかげで汗ばむ事もなく、快適なハイキングになりました。

 13:30にスタート地点の「別府駅西口」に集合した参加者は、ガイド役の京大名誉教授の竹村恵二先生、事務局の杉本さんとご一家、親子4人で参加してくださった方々など総勢10人に、毎日新聞の記者さんも参加されました。



 スタートしてすぐに電柱の海抜表示板の説明がありました。駅西口あたりで海抜は11.8mです。「ここの地面は」との注意書きがあり、細部にまで気配りされているなぁと感心しました。別府では海抜15mまで避難すれば、まずは安全と言われますので、ここはもう少し山側に避難する必要があるようです。



 画像はありませんが、コース途中の民家に「別府石」の石垣がありました。正式名称は「角閃石安山岩」といいます。「別府石」の説明は、別府温泉地球博物館のHPの「別府温泉辞典」から引用します。「かつて別府のいたるところには、鶴見岳をはじめとする火山から、火砕流や土石流として、流れ出してきた安山岩がころがっていました。現在も、道路工事や宅地造成などで土地を掘り返すと、安山岩の転石がたくさん出てきます。人びとは、それらを別府石と呼んで大事にし、いろいろな石材に使ってきました。 

 

 幸通りに出て、別府市公会堂の前に着きました。幸通りは別府市街地の東西の中間地点を南北に貫く通りですが、北から南に緩やかに下っているのが見て取れます。別府市街地が、西から東になだらかに下る扇状地であることはよく知られていますが、実は南の朝見川断層方向にも下っているのです。



 別府市公会堂の前庭に「千辛万苦の場」が移築されています。ここは明治の元勲「井上馨」が攘夷論者の志士に襲われケガをし、療養のため別府に来た際に隠れ住んだ建物です。慶応元年(1865)に流川通の旅館「若松屋」に逗留した井上は、地元の灘亀親分の子分として匿われました。井上はその恩を忘れず、明治44年に別府を訪れ灘亀の墓前に手を合わせ、「千辛万苦の場」の書をここに掲げました。



 別府市公会堂は1928年(昭和3年)に竣工した現存する鉄筋コンクリート造りの建物としては県内最古のものです。設計は逓信省の吉田鉄郎で、ストックホルム市庁舎を参考にしたと言われています。平成26年に大規模な改修工事が行われ、かつてシンボルであった正面の大階段が蘇りました。



 朝見川にかかる御幸橋に到着しました。朝見川は三面コンクリート張りの二級河川です。別府市には主として6つの河川がありますが、一番北の冷川を除いてすべてこの工法が採られています。川を直線化し、3面をコンクリート張りにする工法は、生物の生息場所を奪い、景観としても味気なく、親水性に欠ける残念な工法です。



 朝見川とその支流の鮎返り川は別府市の水道の水源として貴重なものですが、「鮎返しダムは、昭和20年の敗戦後、進駐軍が別府市にキャンプ・チッカマウガを建設したとき、米軍キャンプに給水するため造られたダムだという。(中略)別府市はしかたなく大分川の水に頼るようになったそうだ。今でも水源の主力は大分県企業局が水力発電したあとの水だが、鮎返しダムの水も発電所の点検のときや台風で水が濁ったときは放流されて水道水になるという。(三浦祥子著 「地獄ハイキング随行記」より)」 別府市の水道事業の秘話をご紹介しました。


後編につづく

地獄ハイキング 「鉄輪~野田~亀川コース」 参加レポート

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地獄ハイキング 「鉄輪~野田~亀川コース」

温泉マイスター参加レポート

 NPO法人別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2019年度の春第1回は、平成31年4月20日(土)、「鉄輪~柴石~亀川コース」での開催でした。今回は平成最後の地獄ハイキングとなりました。このコースは京大地球熱学研究施設提供の「鉄輪・柴石コース」と「鉄輪・亀川コース」を合体させた新コースです。ガイド役は京大名誉教授の竹村恵二先生が勤めてくださいました。


 13:30にスタート地点の「大谷公園」に集合した参加者は、久しぶりの参加の河野さん、福岡県から参加の明石さん、川原さんはじめ5人と、事務局の幸さん、ガイドの竹村先生の総勢7人です。



 まずは「地獄蒸し工房鉄輪」の竹製温泉冷却装置「夢雨竹」を見ながらひとしきり話が盛り上がります。竹の枝の中段にバクテリアが付着しているのは、彼らにとってそこが適温なのだろうなどなど。


 みゆき坂を下って「永福寺」に着きました。ここは時宗の開祖一遍上人が鎌倉時代に開いた寺です。上人は法力により鉄輪の地獄を鎮め、最後まで鎮まらなかった地獄を「蒸し湯」として使う事を教えたとされています。一遍は伊予国道後温泉近くで生まれ育ち、遊行の旅の途中に別府を訪れました。その際に上陸したのが「上人が浜」ですが、参加者からはあそこは遠浅の海岸で、海中に岩があったりするので、船を寄せるには向かないとの異論もでました。



 蒸し湯の前を過ぎ、富士屋ギャラリー「一也百」の前に着きました。ここには今では貴重な「別府石の石畳」があります。別府石とは今から約9万年前に鶴見岳が大噴火し、その際に飛んできた噴石で、正式名は「角閃石安山岩」です。通りの石畳が作り替えられる際に、富士屋のオーナーの安波さんのこだわりで、ここだけは元のままに残したのだそうです。



 竹村先生から別府にはもう一つ「輝石安山岩」がありますと解説がありました。約40~50万年前の由布川火砕流が冷え固まったもので、柱状節理となるため、薄く扁平に割れる性格があります。


 市営熱の湯温泉の裏に「熱の湯源泉跡」があります。「熱の湯」と聞くと熱い温泉を想像するのですが、実はここの源泉はかなりぬるかったそうです。熱のある身体でぬるめの湯に浸かると、身体が冷やされて熱が取れることから「熱の湯」と呼ばれました。



 近くに「洗濯場跡」がありますが、戦前まで温泉施設として利用されていたそうでが、湯温が低く泉質が洗濯に適していたため、洗濯場として活用されるようになったということです。つまり、湯がぬるかったからこそ洗濯ができたのです。


 熱の湯裏の断層崖にやって来ました。こここそがNHKの人気番組「ブラタモリ」の「別府はなぜ日本一の温泉に?」編で、案内人を務めた我らが由佐悠紀先生(京都大学名誉教授(地球熱学)、別府温泉地球博物館館長)が登場した場所です。別府を形作った南北二つの断層は正断層であると考えられていて、断層面に沿って地層がズレ下がった扇状地に別府の町が広がっています。



 この断層崖を上り下りする坂道が「みかえり坂」で、頂上から鉄輪の街並みが一望できます。3年前の熊本地震の直後にここを訪れたとき、屋根にブルーシートが懸けられた家屋が一直線上に並んでいて、その直下の断層が動いた事がハッキリわかりました。そして、その断層面から北側の被害が大きかったのは、断層の下盤が強く揺れたことを物語っているのです。



 貴船城の登り口に大観山の溶岩の露頭が見られます。約30万年前、高崎山・実相寺山・大観山が相次いで噴火しました。これらは粘度の高い溶岩を噴出したため、山容はドーム状です。露頭で見られる岩石はいわゆるデイサイトです。デイサイトとは花崗閃緑岩に相当する化学組成をもつ火山岩で、安山岩より二酸化ケイ素を多く含み、有色鉱物はすこししか含まないものです。



 北鉄輪の民家の芝桜が見ごろで、一行の目を楽しませてくれました。



 途中で幹線道路を外れ、野田の集落内を進みます。これから向かう亀川地区は海抜の低い湿地が、亀川断層に沿って奥まで続いているので、津波や高潮の被害をたびたび受けてきたのですが、その際の避難場所はここ、野田公民館が指定されています。



 野田集落のはずれに亀川の市街地と別府湾が一望できる見晴らしの良い場所がありました。ここからは北側の亀川断層と、南の柴石側の断層に限られた、亀川の低地がよく解ります。別府大学駅は海抜11m、別府駅は9.8mであるのに対し、亀川駅は海抜2.8mの位置にあり、いかに低地であるかは明白です。



 野田集落から龍巻地獄の下に通じる山道に火砕流由来の露頭がありました。ボロボロの砂に小石が混じる地層ですが、小石のカドが丸まっていないので、土石流由来ではなく、火砕流か山体崩壊によって生じた地層とわかりました。



 血の池地獄前から長泉寺に通じる小道に、血の池地獄の湯が引いてある貯湯タンクがあり、オーバーフロー分が側溝に流されていました。いかにも血の池地獄の湯を思わせる酸味と、赤に泥が観察できました。



 長泉寺は山号を「朱湯山」といい、昭和43年に現在地に移転するまでは、血の池地獄のそばにお寺があったそうです。「血の池地獄」は西暦720年頃に編纂された「豊後国風土記」に以下の様に記述されています。「赤湯の泉 郡の西北のかたにあり。此の湯の泉の穴は、郡の西北のかたの竃門山にあり。其の周りは十五丈ばかりなり。湯の色は赤くして埿あり。用ゐて屋の柱を塗るに足る。埿、流れて外に出づれば、變りて清水と爲()り、東を指して下り流る。因りて赤湯の泉といふ。」 つまり、1300年以上も前から湧き続けていることになります。池の奥に湧出口があり、1927年(昭和2年)には高さ220mにまで達する大爆発を起こしたとの立て看板が立っています。今では定期的に熱泥を浚っているので、爆発する事はないそうです。





 ここから国立病院機構別府医療センターの前を通って、亀川駅の西口に到着しました。ここが今日のゴールです。かなり長い距離を歩いたという印象ですが、距離は4.7kmで、27m上って160m下るコースでした。


 次回は5/11(土)、「別府・朝見コース」を歩きます。この日は温泉マイスター限定で、私がガイドを勤めます。そして、6/16(日)はどなたでも参加できる回となります。地獄ハイキング終了後は、極楽コース(懇親会)も予定していますので、奮ってご参加ください。

2018おおいた遺産 第2回モニターツアー ~県北(国東市)コース~ (後編)

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2018おおいた遺産

第2回モニターツアー ~県北(国東市)コース~

参加レポート

 

 20:00頃、講堂で「夜の勤行」が始まりました。15:00頃に始まる「昼の勤行」の続きで、僧侶の読経が行われますが、笛・鉦・太鼓の3名でお囃子をします。仏教の法会にお囃子が付くのは珍しく、神仏習合の特徴です。



 22:30頃、僧侶が経文に合わせて舞う、「立役」の行法が始まりました。


「①米華 2名の僧侶が香水棒・米・藁・餅を乗せた盆を持ち、足踏みをするように舞います。五穀豊穣を祈願する儀式です。


②開白 2名の僧侶が右手に香水棒を持ち、足踏みと共に上に突き上げたり、床を突いたりしながら舞います。立役に用いる松明の火の安全を祈願する儀式です。


③香水 2名の僧侶が向かい合って香水棒を打ち合わせながら、大きな動きで舞います。


④四方固 院主と長老の僧が、右手に太刀、左手に金剛鈴を持ち、講堂の東西南北を結界して、魔物の侵入を防ぎます。


⑤鈴鬼 2名の僧侶が男女の鈴鬼に扮して、右手に鈴、左手に御幣を持って舞います。最後に荒鬼を招き出します。」


 米華で藁と餅が参拝者に投げ与えられるのですが、大きな餅が私の顔の側に飛んできてびっくり、でもたった一つの餅をゲットできました。藁はお守りになるそうで、多くの参拝者が争って取っていました。


 22:00頃、2名の僧侶がお堂の後方の「鬼の岩屋」からタイレシに担がれて登場しました。クライマックスの「鬼走り」の始まりです。災払鬼と鎮鬼の2体の鬼とタイレシが「オニハヨー、ライショハヨー」と囃しながら前後左右に飛び、灯明を振ります。つづいて手をつないで輪を作り、参拝者が(お堂の)中に入って加持を受けます。松明で参拝者の肩などをたたき、無病息災の加持を行います。






 堂外からでは行法の詳細は分かりませんので、説明は国東市のパンフレットから一部引用しました。


 この時間から小雨が降りだしましたが、堂内を飛び出した鬼は地区の家々を回り、もてなしを受けます。鬼がお堂に戻るのは午前2:00を過ぎてからの事で、鬼役の僧侶はへとへとで歩けないほどになるそうです。



 このタイミングで我々はバスに戻り、帰り支度をしていると、鬼の一体がわざわざ我々のバスまで来てくれました。


 2:00頃、「地区を回った鬼が講堂に帰ってきます。鬼は暴れまわりますが、タイレシが押さえつけ、院主が鬼鎮めの餅をくわえさせるとしずまります。鬼は僧侶の衣に着替え。講堂で院主と長老の僧侶が「松明結儀頌」を唱えると、鬼会が終了します。」


 国東半島の六郷満山文化は、鬼が仏になった里「くにさき」として2018年、日本遺産に認定されました。「くにさき」の寺には鬼がいる。一般に恐ろしいものの象徴である鬼だが、「くにさき」の鬼は人々に幸せを届けてくれる。おどろおどろしい岩峰の洞穴に棲む「鬼」は、不思議な法力を持つとされ、鬼に憧れる僧侶達によって「仏(不動明王)」と重ねられていった。「くにさき」の岩峰につくられた寺院や岩屋を巡れば、様々な表情の鬼面や優しい不動明王と出会え、「くにさき」の鬼に祈る文化を体感できる。修正鬼会の晩、共に笑い、踊り、酒を酌み交わす――。「くにさき」では、人と鬼とが長年の友のように繋がれる。(日本遺産ポータルサイトより)


 国東半島に花開いた六郷満山文化は、宇佐八幡宮の権力と財力を後ろ盾に生まれましたが、次第に山里に土着して、決して豊かではなかった里人の心の拠り所となって行きました。今回拝観した「修正鬼会」は六郷満山の僧侶と里人が連綿として伝えてきた民族文化財です。しかし、過疎化の進展でこのような貴重な文化財さえも、存続の危機に瀕しているのです。偶数年に修正鬼会を行ってきた成仏寺では、2016年には主催の寺や協力する地元住民、檀家の高齢化などを理由に休止になりました。ボランティアの募集など、運営態勢を見直して負担の分担を図り、2018年には4年ぶりにようやく復活を成し遂げました。


 今回の拝観においても、なんら金銭的な見返りを求めてはいませんが、寺や集落の負担は小さくないと思います。地元の人以外の拝観にお布施を求めるとか、講堂内での拝観や駐車場を有料化するなどで財源を確保すること。ボランティアの積極的活用で外部からの人手を確保し、地元の負担を減らし、継続させることが求められているのです。


 山里の自然あふれる風景を残してほしいという思いが、過疎化に拍車をかけているとは言いません。が、部外者の身勝手さも否めません。


 六郷満山寺院は開山1300年祭を期に僧侶の代替わりが進んでいるそうです。宇佐・国東地域はクヌギ林とため池がつなぐ国東半島・宇佐の農林水産循環として世界農業遺産に認定されました。里人が故郷に誇りと愛着が持てる文化を持ち、農林水産業の多様性を生み出してゆく事で、Sustainability(持続可能性)を維持してほしいと願うばかりです。




 今回のバスツァーは25:30に大分駅に到着し、長い長い日程を終えました。その日その時にしか出会えないおおいた遺産もあるので、今後も機会を見つけて参加したいと思います。

2018おおいた遺産 第2回モニターツアー ~県北(国東市)コース~ (前編)

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2018おおいた遺産

第2回モニターツアー ~県北(国東市)コース~

参加レポート

 一般社団法人大分学研究会の主催で行われた「2018おおいた遺産モニターツアー 第2回県北(国東市)コース」に参加してきました。折から大寒波の襲来で、深夜に及ぶ祭礼に躊躇する気持ちもありましたが、翌日が祝日という願ってもない日程でしたので、思い切って参加する事にしました。

 14:30に大分駅前に集合した参加者はいつもの小型バスに乗り込み、途中で別府からの参加者を乗せ、総勢24名で国東半島に向けて出発しました。



 国東六郷満山の「修正鬼会(しゅじょうおにえ)」は国指定重要無形民俗文化財となっています。国東市の成仏寺と岩戸寺が各年交代で、成仏寺は旧正月の5日に、岩戸寺は旧正月の7日に近い休日に、豊後高田市の天念寺では毎年旧正月の7日にとり行われています。



 国東市教育委員会文化財課のパンフレットには、修正鬼会は、国東半島の六郷満山寺院を中心に行われてきた春を迎える伝統行事です。地域では「鬼会(おにお)」とか「鬼夜(おによ)」と呼んだりもします。

 平安時代に都の各仏教寺院で「修正会}という正月の法会が行われるようになり、各地の寺院にも広がり、鎌倉時代にはこの国東半島地域にも入っていたようです。そして六郷満山寺院では、この地域で行われていた「鬼会」という行法と結びつき、独自の「修正鬼会」が生まれたと考えられています。

 現在、寺々に残されている鬼会面などから、江戸時代の初め頃から盛んに行われていたようです。

 六郷満山の寺院は、決して大きな寺院ではありませんでしたが、領主の厚い保護を受け、領地や多くの僧を抱えていたことから、各寺院で「修正鬼会」を行うことができました。しかし、明治時代になると、保護する領主もなくなり、寺僧も減少したことから、六郷満山の寺々は東・中・西組に分かれ、各組内で相互に加勢しあう方法をとり、およそ20の寺院で「修正鬼会」を行っていました。現在では東組が国東市の成仏寺と岩戸寺で交互に行い、西組が豊後高田市の天念寺で行うだけとなっています。 修正鬼会は寺の僧侶だけでなく、地域の人々が様々な役割を担っています。このことは、六郷満山寺院と地域の結びつきの強さを示すものと考えられています。

 仏教儀式でありながら農耕儀式や庶民信仰をも含んだ儀式として、昭和52年に国の重要無形民俗文化財に指定されました。と説明されています。


 修正会としては、福岡県の太宰府天満宮の「鬼すべ」や、久留米市の大善寺玉垂宮の「鬼夜」などが有名です。奈良東大寺の「お水取り」は、旧暦の二月に行われる「修二会」という儀式で、修正会と同じような儀式と考えられます。

 まずは明日、修正鬼会の行われる豊後高田市の長岩屋山天念寺を訪れました。前を流れる長岩屋川と断崖絶壁の天念寺耶馬に挟まれた狭い土地に寺はあり、講堂・六所権現社(現:身濯神社)だけが建っている無住の寺です。本堂と庫裡は昭和16年10月1日の集中豪雨で流出してしまい、本堂の再建資金を得るために、国の重要文化財である阿弥陀如来立像が埼玉県の寺院に売却され、その後大分県などによって買い戻され、今は近くの「鬼会の里」の収蔵庫に収まっています。






 長岩屋川の流れの中に巨岩があり、三体の仏像が刻まれています。これが、通称「川中不動」と呼ばれる磨崖仏で、高さ3.23mの不動明王と二童子(制多迦童子、矜羯羅童子)の像で、室町時代に治水の願いを込めて造られたと伝えられています。



 裏山の天念寺耶馬は2017年10月に無動寺耶馬と共に国の名勝に指定され、山中には六郷満山峯入りの修行場のひとつ石造アーチ橋の「無明橋」があります。




 国東市の割烹川口屋で夕食をとった後、今日の修正鬼会の舞台となる岩戸寺に向かいました。とっぷりと陽が暮れた中を県道でバスを降り、岩戸寺までの細い道を400mほど登ってゆくと、小さな谷の奥にささやかな集落があり、さらにその奥にたき火の明かりにぼんやりと照らされた寺が見えていきました。打ち鳴らされる梵鐘の音と、僧侶の吹くホラ貝の音、そして参拝者のざわめきが聞こえてきます。



 18:30頃、参道の入り口に人だかりができ、8人のタイレシ(後で大松明を運び上げたり、荒鬼の介添役となり、鬼とともに加持を行う役)が谷川で身体を清める「垢離取り」を見守っていました。

 19:10頃、本堂で「盃の儀」が始まりました。院主(当寺の住職)とタイレシが杯を交わして縁を結び、鬼会が無事執行されることを祈願する儀式です。裃姿の二人の少年が両者にお酌をしていました。



 19:30頃、本堂での儀式が終わり、院主らの僧侶が講堂に向かいますが、参道を照らすため大松明(オオダイ)に火がつけられ、タイレシがかついで参道を上り、六所権現と薬師堂に献灯する「タイアゲ」が行われます。




 本堂から講堂へ上る参道沿いに国の重要文化財の国東搭があります。国東市のHPによれば、「銘文のある国東塔としては最古、しかも気品のある最優秀作である。総高3.29m。塔身の刻銘により弘安6年(1233)に納経のために造立。各部の均整がとれ気品があり、優美な塔である。鎌倉時代」とあります。



(後編に続く)

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