海心堂の温泉逍遥

日本一のおんせん県おおいた(別府八湯温泉道、奥豊後温泉文化伝)を中心に、九州の温泉(九州温泉道)の入湯記録

地獄ハイキング 浜脇~上人ヶ浜コース 参加レポート(前編)

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地獄ハイキング

浜脇~上人ヶ浜コース 参加レポート(前編)

 NPO法人別府温泉地球博物館主催の地獄ハイキング2018年度の秋の第3回は、平成30年10月28日(日)、浜脇~上人ヶ浜コースでの開催でした。

 この日は秋晴れの好天に恵まれ、時折爽やかな秋風の吹く絶好のハイキング日和でした。

 別府市報やチラシの配布、新聞での案内などの事前に広報が功を奏し、13:30にJR東別府駅に集合した参加者は約30人に上りました。竹村先生京都大学地球熱学研究施設の一般公開イベントで来別していた学生さん3名、小学生の男の子2人を連れたお母さん、来週の鍛錬遠足の下見を兼ねて参加した小学校の先生など、いつもにないバラエティに富んだメンバーで元気に出発しました!!



 このコースは昨年10/29の回のために用意された新コースですが、台風の接近で中止となり、2年越しで実現しました。

 スタート地点の東別府駅は、1911(明治44)年、豊州鉄道の浜脇停車場として開業し、1934(昭和9)年に東別府駅に改称されました。趣ある木造駅舎が残っており、市指定登録有形文化財になっています。近年では、新垣結衣・三浦春馬主演の映画「恋空」のロケ地になった事で話題になりました。



 浜脇1丁目の住宅街に「丸井戸」があり、いつもは蓋をされているのですが、この日はつるべが用意されていました。すぐ裏にある秋葉神社の秋祭りで、お神輿の巡行があり、それに備えての事だそうです。井戸水やおやつをお接待していただき、出発早々の小休止となりました。



 少し歩いて浜脇温泉前の広場に到着しました。入口近くの石造りのアーチは、建て替え前の浜脇温泉の玄関で、床のタイルで当時の浴槽の位置や大きさが偲べるようになっています。ちなみに浜脇高等温泉は湯治客向けであったためぬるめの湯で、浜脇温泉は地元民向けに熱めになっていたそうです。



 朝見川の河口近くに架かる橋の上にきました。満潮に近い時間だったらしく、ゆったりとした流れが見られました。ここで竹村先生から「浜脇温泉の源泉はどうなってるの?」との質問が飛び出しました。「市営給湯線のラクテンチ下の雲泉寺タンクからの引き湯です。」と答えると、「純粋な浜脇源泉はないのと?」と聞かれ、「すぐそこの新玉旅館と二幸荘の2つの旅館だけが浜脇源泉です。」とお答えしました。このところ、地獄ハイキングでは突然の質問やガイドの要請が飛び出すので、油断がなりません。



 浜脇温泉から別府温泉に入ってきました。両地区の境は松原公園だという事ですが、厳密な区分けはない様です。


 市営永石温泉に到着しました。このあたりは海抜3.8mで、大津波が到達する場所で、JRの線路が走る海抜10mより上に避難しなければ危険だと教えていただきました。



 流川4丁目の交差点に伊能忠敬測量碑が建っています。流川通りはかつての別府のメインストリートで、不夜城といわれたほどで、旅館や土産物屋・多くの商店が立ち並んでいました。



 織田作之助の「続夫婦善哉」では、大阪で食い詰めた柳吉と蝶子は流川通の裏通りに化粧品の店を出します。いつかは流川通に店を持ちたいというのが二人の合言葉になるほどだったのです。


 アーケード街を抜けて竹瓦温泉に着きました。明治時代はこの辺りは砂浜の海岸で、浜からは温泉が湧いていました。そこに粗末な湯小屋を建て、半割の竹で屋根を葺いたのが竹瓦温泉の始まりです。現在の建物は1938(昭和13)年に完成したもので、2004(平成16)年に国の登録有形文化財に指定されました。



 竹瓦温泉は3つの源泉を持っており、男湯用は浴室前の植え込みの下にあります。コンプレッサーによる汲み上げですが、源泉がそのまま浴槽に注がれています。


 竹瓦温泉の裏手に波止場神社があります。1878(明治3)年初代日田県知事の松方正義により別府港が築かれ、波止場の鎮守としてこの神社がお祀りされました。



 「神様、仏様、稲尾様」と言われた西鉄ライオンズの稲尾和久投手は、神社のすぐ横の路地で生まれ、漁師だった父親を助けて舟を漕いだり、神社の境内でキャッチボールをしたりして、幼年期を過ごしました。その後、西鉄ライオンズに入団し、1958(昭和33)年の日本シリーズでは、巨人軍を相手に3連敗から4連投で勝利し、「神様、仏様、稲尾様」と呼ばれました。


(後編へ続く)

浜脇温泉 浜脇温泉

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12-33/1066  別府八湯温泉道 No.36

浜脇温泉 浜脇温泉

 

♨熱湯とぬる湯に改装オープンした浜脇温泉♨

 

平成30年10月28日訪問

 

 今日はこの後、地獄ハイキングで別府の海岸線7kmを踏破する予定です。その前に腹ごしらえと入湯に浜脇温泉広場へやってきました。



 市営浜脇温泉は広い浴槽と熱めの湯、深夜1時まで営業しているのが特徴ですが、一般客には熱すぎて浸かれないのが玉に瑕でした。今回、この点を解消するため浴槽を2つに仕切り、熱湯とぬる湯に分ける工事が行われました。


この画像は別府市のHPよりお借りしました。




 浴室に入ると、丁度半分に仕切られた浴槽は、一つ一つが5人用くらいで、意外にも狭い感がありました。手前のぬる湯は42℃、奥の熱湯は44℃で、工事の効果はてきめんでした。

 別府八湯の発祥地とも呼ばれた浜脇温泉は、大正10年頃から朝見川の両岸や海岸線に豊富に湧き出していた源泉が次第に枯渇し、今ではラクテンチ下の市有雲泉寺タンクからの引き湯に変わってしまった。

 純粋な浜脇源泉が生きているのは、仮装が呼び物の二幸荘と、看板猫で有名な新玉旅館だけと言われています。



 同様に浜脇から亀川に至る約8kmの海岸線には、どこも天然の砂浜で至る所に砂湯がありましたが、度重なる高潮の被害と、国道の拡幅の影響で湯が湧かなくなり、昭和50年代に姿を消してしまったのです。上人ヶ浜の別府海浜砂湯は、山手の今井温泉から湯を引き、砂を貯めたプールを湯で満たして、砂を温める人工物なのです。

 この砂湯の拡張計画が市議会で決議され、旧市美術館の跡に2020年にも開業するようですが、砂浜から湧く湯で砂が温められる、本来の姿に戻る事を切望しています。

 

【分析書データ】単純泉、 65.0 PH8.0、成分総量819mg、無色・澄明・無味・無臭(雲泉寺タンク)

 

入浴料 100円

有限会社 汐湯

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154/235 その他の温泉 大分県中津市三ノ丁1278-1

有限会社 汐湯

 

♨明治39年創業の老舗銭湯で、海水浴ができます♨

 

平成30年10月21日訪問

 

 「九州人形芝居フェスティバル」が跳ねた後、こちらをお尋ねしました。45年くらい前に中津に住んでいた事があり、ここにも数度は訪れたと記憶しています。中津城の向こう側あたりと思っていましたが、そこはナビをたよりにスムーズに到着しました。





 こちらは「中津海水湯」として明治29年に創業したそうで、周防灘から流れ込む海水を中津川の河口で汲み上げて沸かしています。銭湯の建物の奥に、木造三階建ての瀟洒な建物があり、これは割烹旅館として使われていたようで、中津の裕福な旦那衆が夜な夜な通った名残のようです。


 男湯の入り口をくぐると、本格的な番台があり、レトロな雰囲気に似つかわしいお婆さんがおられました。引き戸の先が脱衣所で、木製の脱衣箱がありました。





 浴室に入ると、向かって左に白湯の浴槽と、右隅にお目当ての汐湯があります。わずかに濁りを感じさせる湯です。41℃ほどのややぬるめの湯で、さすがに味は強い塩分を感じました。





 浴後は奥の階段を5~6段上った先に広い「涼み台」があり、土手から吹いてくる風にあたることができます。夕日が差し込んで、とても心地よく、ゆっくりと寛ぐことができました。





 建物の老朽化は隠すべくもなく、遠くない将来に閉鎖・廃業に追い込まれることを恐れるばかりです。




 

【分析書データ】温泉ではないため分析書データなし  

海水の塩分濃度は約3%で、塩化物イオンの含有量は30,000mgとなります

 

入浴料 350円



九州人形芝居フェスティバル

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中津文化会館 「九州人形芝居フェスティバル」

 「第33回国民文化祭おおいた2018」「第18回全国障害者芸術・文化祭おおいた大会」の中津市分野別事業として、10/21(日)に「九州人形芝居フェスティバル」が中津市文化会館で開催されました。



 なぜ「中津市」でこの催しが行われるかと言えば、中津市には鎌倉時代に始まった大分県指定無形文化財の「北原人形芝居」が伝わっているからです。

 「北原人形芝居」については、中津観光協会のHPに次のように紹介されています。「毎年2月の第1日曜日に、原田神社で行われる万年願という行事で演じられる人形芝居ですがそのルーツは鎌倉時代までさかのぼります。北条時頼が全国をめぐっているときにこの地で病気になり、そこで、村人たちが一生懸命に看病したところ無事回復しました。病気が治ったことをお祝いした席で、村人が手の甲に目鼻をかき、着物のそで口からそれをのぞかせて楽しんだことが人形芝居の起こりだとされています。また北原人形芝居は人形浄瑠璃「文楽」のルーツという説もあるようです。 現在この伝統芸能を支えているのは、北原人形芝居保存会や三保小学校人形クラブです。この伝統芸能を継承しようと、三保小学校のメンバーが練習に励んでいます。 「翁渡(おきなわたし)」、「傾城阿波鳴門(けいせいあわのなると)」など様々な演目があります。 人形芝居の基本は、浄瑠璃に乗せて、頭と右手の担当、左手の担当、足の担当の3人1組で一体の人形を操る三人遣いですが、2001年には、足の指で人形のかかとを挟んで1人で操演する「挟み遣い」が復活しました。「挟み遣い」は全国でも北原人形芝居にのみ伝わる独特の操演法です。」



 本公演では中津市長、市議会議長の挨拶に続き、長崎県波佐見町の「皿山人形浄瑠璃保存会(長崎県指定無形民俗文化財)」による「二人三番叟」で幕を開けました。参加団体はどこも後継者不足に悩まされているようですが、40歳~76歳の12名の会員が伝承に努めているとの事です。



 黒地に鮮やかな若松柄の上衣・袴と烏帽子を着けた2人の三番叟が、鈴を振ったり種をまく仕草を見せたりしながら、全身で激しく舞います。途中で一人が疲れて休もうとするところを、もう一人が励ましつつ自らもこっそり休むという滑稽な場面を挟んで、華やかに舞い納めました。浄瑠璃は竹本鳴子太夫で、清和文楽座を除く今日出演のすべての団体の指導を行っておられます。


 続いてはユネスコ無形文化遺産に登録され、特別出演の「人形浄瑠璃文楽座」です。「義経千本桜 道行初音の旅」をモチーフに太夫、三味線、人形の三業の役割の説明と実演がありました。



 人形遣いは頭と右手を使う主遣い、左手を担当する左手遣い、足を担当する足遣いの三人一組です。主遣いになるには30年にも及ぶ修行が必要だそうです。



 三味線は太棹とよばれる大きなもので、裏には犬の皮、表には猫の皮がはられ、表は毎月張り替えるそうです。



 一方、太夫は義太夫節を語り、たった一人で場面の情景、物語の背景、登場人物全員のセリフを語ります。しかも、マイクなしの肉声です。


 文楽と言えば、人の半分ぐらいしかない人形を3人で操る非効率さと、背景や登場人物全員を一人の大夫が語る不自然さ、伴奏もたった一人の三味線が受け持つというアンバランスさが気になります。歌舞伎にはもともとは人形浄瑠璃のために書かれ、後に歌舞伎化された作品がありますが、セリフは役者がしゃべります。文楽は3人もの人形遣いがおりながら、なぜ何もしゃべらないのでしょうか。そんなことを思いながら、プロの芸の奥深さを感じていました。


 最後に「伊達娘恋緋鹿子 火の見櫓の段」が上演されました。

 午後からの第二部は、佐賀県唐津市の唐津人形浄瑠璃保存会による「絵本太閤記 十段目 尼ケ崎の段」、長崎県東彼杵町の千綿人形座サポーターによる「傾城阿波の鳴門 巡礼歌の段」、熊本県山都町の清和文楽人形芝居保存会による「雪おんな(弾き語り)」、福岡市の今津人形芝居保存会による「東海道中膝栗毛 赤坂並木の段」、福岡県福津市の勝浦人形浄瑠璃保存会による「鬼一法眼三略巻 五条橋の段」、大分県中津市の北原人形芝居保存会による「絵本太閤記 十段目 尼ケ崎の段」が上演されました。


 唐津と北原が同じ演目とは、北原は「挟み遣い」の「日高川安珍清姫道行の段」を上演すべきだったのではないでしょうか。

 公演パンフレットに今回出演の7座のうち3座は、過去に北原から指導者を招聘し技量の向上を図ったと書かれています。江戸末期から戦後にかけての事で、北原が人形芝居でいかに勇名を馳せていたかが伺えます。



 どの一座も浄瑠璃と三味線の習練が課題の様で、先の竹本鳴子太夫の指導を仰ぐか、なかには人形繰りしか伝承していない座さえあります。



 人材面でも資金面でも、伝統芸能を守ってゆくのは厳しいようで、しかもプロ集団ではないので、週一回ほどしか練習が出来ないのでしょうね。地方の小さな集落に伝わってきたものなので、中学・高校といったより広い地域を巻き込むこともままならず、地元の小学校のクラブ活動で教えていくのがやっとの現状、それでも残したければ自治体の援助に頼るしかないのかもしれません。

                    この画像は「中津市公式観光サイト」よりお借りしました。


大分県立美術館(OPAM)「にっぽん芸術文化祭」(後編)

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大分県立美術館(OPAM)「にっぽん芸術文化祭」(後編)

 

 次に見た展覧会は「おおいた美術散歩 OPAM & 豊の国」です。国民文化祭おおいた2018では大分県下を5つのブロックに分け、ブロックごとにテーマを掲げ、そのテーマに沿った芸術文化活動が展開されています。

 この展覧会は5つのブロックの特色ある美術品を展示するものです。



 出会いの場:大分市・別府市・由布市では、福田平八郎の「新雪」は代表作の一つで、県が6800万円で購入を予定している作品。高山辰雄の「食べる」は無心に何かを食べる幼な子の姿が感動的、同「豊かな濱邊」は郷土愛溢れる大作です。竹工芸の最初の人間国宝:生野祥雲斎の「炎」はモダンで緊張感のある美しさ。

 祈りの谷:豊後高田市・杵築市・宇佐市・国東市・姫島村・日出町では、鏝絵の「鯛廻し恵比寿」が愉快です。河合誓徳の「望郷」は故郷・国見町の風景が描かれた最晩年の作品。

 豊かな浦:佐伯市・臼杵市・津久見市では、作者不詳の「蒔絵螺鈿聖者像聖龕」は宗麟時代のキリシタンの貴重な文物。



 耕す里:竹田市・豊後大野市では田能村竹田の「稲川船遊図」は繊細な描線と鮮やかで深みのある色彩が目に清々しい作品で国の重要文化財。朝倉文夫の「墓守」は人物の内面まで表わしている深みある名作。



 水の森:中津市・日田市・九重町・玖珠町では、宇治山哲平の「童」は明るく楽しく、抽象画もいいなと思わせてくれる作品。岩沢重夫の「浜の朝」はかっちりとした構成と抒情性が同居した名作。



 もう一つは「OITA DESIGN POWER 2018「 Design Cafe 4」-おおいた文化の祭典- 」というイベントで、県内をはじめとする日本国内のクリエーター55組が、「デザインとの出逢い」をテーマに展覧会を開催していました。Facebook友達の杉本国雄さんが、自身がデザインされた「くにさき七島藺表」で作ったイスを出品していました。




 畳表の「くにさき七島藺表」は、国が地域ブランドとして保護する「地理的表示保護制度」に登録されている、日本で唯一の青筵の畳表です。江戸時代には大分県下の府内藩、日出藩、杵築藩で栽培が行われていました。現在の大分市の府内藩においても主要な産物でした。七島藺表は丈夫な事で知られ、昭和40年代までは柔道場のタタミは七島藺表で作られており、1964年の東京オリンピックの柔道場でも使われました。

 杉本さんもこの事はご存じで、2020年の東京オリンピックでも使われればいいなぁと話し合いました。

 しかし、最盛期の昭和10年の県下の生産量は、1600haで6,500,000枚が栽培されていたのですが、現在はわずか1haで3000枚、農家数も10軒ほどと、とんでもなく少ないのです。

 杉本さんにそっとお値段をおたずねしたところ、一脚が20万円ほどになるそうで、お求めやすい値段になることも課題のようです。

 今後も国民文化祭に協賛した展覧会やステージ・イベントが数多く開催されるようです。機会があれば、レポートします。

大分県立美術館(OPAM)「にっぽん芸術文化祭」(前編)

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大分県立美術館(OPAM)「にっぽん芸術文化祭」(前編)



 大分県立美術館では「第33回国民文化祭おおいた2018」「第18回全国障害者芸術・文化祭おおいた大会」の会期中に、「にっぽん芸術科学祭~過去、現在、そして未来へ~」と題する多彩な催し物が開催されています。更に「にっぽん芸術科学祭特別パス」を購入すると、大分芸術・文化友の会「びび」の年間パスポート¥2,500と、展覧会チケット¥3,600と駐車料¥400の合計¥4,000円がセットで、年会費¥3,000で購入できます。

 という訳でこのチケットを入手して、10/14(日)にさっそくOPAMを訪れました。


 最初に見学したのは「日本モダンの精華 京都国立近代美術館コレクション」で、近代日本画を中心に洋画、陶芸作品が展示されていました。



 本展の概要について、パンフレットに以下のように説明されています。「1200年以上にわたる歴史を通してわが国の文化の中心として発展してきた京都。この地では伝統と革新が溶け合いながら洗練された美術が育まれ、現代に至るまで、傑出した美術家を多数輩出してきました。

大分市出身の日本画家・福田平八郎もこの地で才能を開花させたひとり。写生派や琳派といった伝統を受け継ぎながら、卓越した造形感覚で新たな日本画の世界を切り拓いた京都画壇の巨匠です。


そして、福田の才能に惚れこみ、画業を支援したのが戦前の中国・大連で活躍した臼杵市出身の実業家・首藤 定氏(1890~1959)。
花菖蒲をはじめとする福田の戦前期の代表作が数多く含まれた「首藤コレクション」は、終戦直後の混乱期に飢えに苦しむ在留邦人を救済するため、食料と引き換えに旧ソ連に渡りましたが、1975年にその中の福田作品42点が日本政府に寄贈され、現在は京都国立近代美術館の所蔵となっています。



本展は、京都国立近代美術館の全面的なご協力のもと、日本画の竹内栖鳳、上村松園、村上華岳、洋画の梅原龍三郎、安井曾太郎、須田国太郎、工芸の富本憲吉、北大路魯山人、河井寛次郎ら京都ゆかりの作家たちの名品とともに、数奇な運命をたどり日本に戻ってきた「首藤コレクション」の福田作品19点を紹介します。古都の伝統と創意が育んだ「日本モダン」の精華を、この機会に心ゆくまでご堪能ください。」



 福田の作品と言えば、初期の傑作「鯉」(T10)、中期の名作「漣」(S7)、そして後期の代表作「雨」(S28)があげられるますが、今回の展観からも「円山四条派の写生から出発し昭和初期には清新な感覚的装飾性にむかいさらに戦後は独自の象徴性を加えた作風を展開し晩年には明るい色彩を多用した作品を描いた。(大分県立美術館HPより)」という作風の転換が見て取れます。

 なかでも首藤コレクションのひとつの「花菖蒲」は、尾形光琳の「燕子花図」を思わせる作品ですが、より平明で光に満ち、美しい作品でした。


(後編に続く)

由布院温泉 名苑と名水の宿 梅園

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153/234 その他の温泉 大分県由布市湯布院町川上2106-2

由布院温泉 名苑と名水の宿 梅園

 

♨この大きさの浴槽が掛け流しとは立派です♨

 

平成30年10月13日訪問

 

 次に訪ねたのは由布院盆地の南側の小高い丘に建つ高級旅館のこちらです。一万坪の敷地に本館14室、離れ12棟というお宿です。

 

 駐車場から上り坂をたどると本館があり、ここで受付をします。建物を取り囲むように広い庭園が広がっていて、水量豊富な馬場水源と黒鉄水源という湧水があるそうで、園内のどこでも水の音が聞こえます。驚いたことに九州で唯一、ミズバショウが自生しているそうです。また、別府の鉄輪むし湯で使われる薬草の石菖も自生していました。





 

 本館の裏手の小道を進むと、お目当ての大露天風呂「天心の大湯」がありました。清潔で広々とした脱衣所と、浴槽は3つで、由布岳の眺望と、美しい大自然の開放感あふれる露天岩風呂、内湯の檜風呂、ガラス屋根付き半露天の岩風呂で、どれも十分な広さがあります。





 

 湯はアルカリ性単純泉で、加水があるようですが、掛け流しです。この大きさの浴槽が掛け流しとは立派です。しかも、独り占めできましたので大満足でした。





 

【分析書データ】単純泉、60.0℃、PH7.3、成分総量623mg、無色・澄明・無味・無臭 H27.10.29 メタケイ酸245 炭酸水素イオン155 加水あり

 

入浴料 100円(CJO割引券)


塚原温泉 山荘 四季庵

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152/233 その他の温泉 大分県由布市湯布院町塚原黒笠木135-7

塚原温泉 山荘 四季庵

 

♨温泉は泉質名のない冷鉱泉です♨

 

平成30年10月13日訪問

 

 このような入湯記を記述し始めたは、平成21年8月16日で、最初の記事は「別府海浜砂湯」でした。以来、9年2カ月の間に1700湯の入湯を果たしました。やはり、別府八湯温泉道での入湯が多く、1065湯を数えています。

 

 

 さて、この日の一湯目は由布市の塚原高原のこちらです。地元情報誌の「シティ情報おおいた」の割引券での入湯です。大分県下で温泉旅館やビジネスホテルを展開するグローリアホテル・グループのお宿です。

 

 

 趣ある門を潜ると前庭が広がり、そこに堂々とした合掌造りの母屋が建っています。これは岐阜県の白川郷から移築したもので、築200年の木造五階建ての建物です。この母屋を回り込むように裏に向かうと、こじんまりとした湯小屋がありました。




 

 

 薄暗い脱衣所を出ると、思いの外小さな露天風呂がありました。正面には真北から眺める由布岳の山頂が見渡せます。

 

 

 温泉は泉質名のない冷鉱泉です。湯温が25℃以下の15.8℃で、メタケイ酸が75mg/で温泉ですが、療養泉としての泉質名は付きません。まぁ、井戸水を加温しているといったところでしょうか。

 

 

 紅葉の見ごろには少し早くいのですが、気持ちのいい青空が広がっていました。中庭ではヤギやアヒルがのんびりと日向ぼっこをしていました。

 

 

【分析書データ】泉質名なし、15.5℃、PH7.4、成分総量176.9mg、無色・澄明・無味・無臭 H27.5.23 メタケイ酸74.6 炭酸水素イオン67.2

 

入浴料 100円(CJO割引券)

大分を彩るスポット再発見 ~うわさのタイムトリップ~豊後大野ジオパークを巡る(後編)

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大分を彩るスポット再発見
~うわさのタイムトリップ~

豊後大野ジオパークを巡る(後編)



 さて、先を急ぎましょう。次は緒方町の「宮迫西・東磨崖仏」です。両磨崖仏ともに「国の史跡」に指定されています。

 おおいた豊後大野ジオパークのサイトを引用します。「宮迫東石仏・西石仏は、阿蘇-4火砕流堆積物の岩壁に彫り込まれた磨崖仏で、昭和9年に国史跡に指定されました。 東石仏の中央の像は大日如来、その右は不動明王像、左は毘沙門天像で、更にそれらの両脇に金剛力士像が彫り込まれています。近年まで牛馬の守り神として地域の人々の信仰を集めてきました。 西石仏は、阿弥陀・釈迦・薬師の如来三尊像で、東・西石仏とも造立の発願者は豊後武士「緒方三郎惟栄(これよし)と推定されています。」





 照明がなく薄暗い中での拝観でしたが、史跡指定前に地元住民によって彩色された顔料が鮮やかに残っているのが印象的でした。ただ、この彩色というかお化粧はお世辞にも上手とは言えず、仏様のお顔が’まぬけ’に見えるのはご愛敬でしょうか。





 西磨崖仏は石材が固く、彫刻も硬質な感があり、東磨崖仏は石材が柔らかいため、彫刻もおおらかに感じました。




 これまで、「国の重要文化財」や「国の史跡」、「県の有形文化財」などの用語を使ってきました。文化財については文化庁が定めた分類があります。建造物や美術工芸品の絵画・彫刻・書跡などの有形文化財のうち、重要なものを「重要文化財」といい、そのうち価値の高いものを「国宝」といいます。

 また、遺跡・名勝地・動植物と地質鉱物などの「記念物」のうち、重要なものを「史跡・名勝・天然記念物」といい、特に重要なものを「特別史跡・特別名勝・特別天然記念物」といいます。


 「菅尾石仏」は彫刻として重要なものであるので「国の重要文化財」に指定され、「記念物」とても重要なものとして「史跡」の二重指定を受けています。一方、「宮迫西・東磨崖仏」は「史跡」としてのみ指定されているのは、彫刻としての価値はそれほど高くはないということでしょう。




 「臼杵石仏」が国内で唯一、「国宝」と「特別史跡」の二重指定を受けているのは、大分県民にとって大変名誉な事なのです。

 大分県内には、「国宝」4件、「重要文化財」83件、「重要無形文化財」1件、「重要有形民俗文化財」4件、「重要無形民俗文化財」7件、「特別史跡」1件、「特別天然記念物」2件、「重要伝統的建造物群保存地区」2件、「重要文化的景観」3件が登録されています。




 次は緒方町の「出会橋、轟橋」で、アーチの長さが日本第1位と第2位がすぐそばに並んでいます。


 「出会橋」は豊肥線牧口駅(現豊後清川駅)が開業した折に鉄道へのアクセスをよくする目的で、大正13年に川の両岸の轟・平石地域の人々が協力して作った人道橋です。径間29.3mは日本第2位です。





 「轟橋」は昭和9年に、祖母傾山系の国有林から切り出される多量の木材を、トロッコ鉄道で運び出すために営林署が作りました。径間32.1mは日本第1位です。営林署が先に出来た「出合橋」を利用しなかったのは、強度が足りなかったのか、名もなき村民が作った橋を使うのは、プライドが許さなかったのか。




 河原に降りる道はすこし険しいですが、是非降りてみてください。深い峡谷とそれを形作る阿蘇溶結凝灰岩の柱状節理、奥岳川の清流とそこに架かる2つ美しいアーチ橋、一見の価値があります。




 今回の訪問地の最後は「沈堕の滝」です。ここの説明もおおいた豊後大野ジオパークのサイト引用します。「室町時代の水墨画家「雪舟」が「鎮田瀑図」を画いたことでも知られる「沈堕(ちんだ)の滝」は、阿蘇-4溶結凝灰岩の岩壁が崩落してできた滝で、雄滝(幅100m、高さ20m)と雌滝(幅10m、高さ18m)の
2つの滝があります。明治42年(1909)、大分~別府間を走る別大電車のために豊かな水量を活用した沈堕発電所が運転を開始。滝の上流部には幅115m、高さ5.5mの沈堕ダムが建設されました。」


 


 別大電車が開通したのは明治33年で、別府停留場(旧別府港前)から堀川停留場(大分市都町)間の約10.78kmの区間でした。当初は別府に火力発電所を作り(現在のゆめタウンの通り向かいのコンビニ・ローソンのあたりに全国2番目の火力発電所として設立)、電力を供給していました。しかし、更なる路線伸延と増便させるためには、より多くの電力を必要としました。そこで、沈堕の滝に水力発電のためのダムを作る事になったのです。




 時は流れて、滝の岩盤の崩落が続き、ダムの堰堤までも崩落する危険性が高くなったのと、名瀑を取り戻したいという地元住民の声に押され、九州電力が対策に乗り出したのは平成8年のことでした。滝の壁面にロックボルトを打込んで補強、河床は根固め工により洗掘を防止、ダム下流のエプロン部も補強。あわせて自然石や擬石を施して、豊後国志に「大野、緒方の二川、諸渓水を導き、ここに至り相合して一になり懸崖より下る。激水急湍、十三条。遠くから見れば氷柱の列、近づけば白い竜が雨を駆るようで、百雷が怒叫、飛雪が虹を吐く」と形容された十三条の姿を取り戻しました。国の登録記念物に指定されています。



 この後、道の駅きよかわで清川町から参加のお母さんと小学4年生の娘さんを下して、大分駅、別府亀川への帰路につきました。




 杉浦先生、山路先生、溝部学園の安達さん、赤木さん、白石さん、杉浦ゼミの学生さん、参加者の皆さん、ありがとうございました。


大分を彩るスポット再発見 ~うわさのタイムトリップ~豊後大野ジオパークを巡る(中編)

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大分を彩るスポット再発見 ~うわさのタイムトリップ~

豊後大野ジオパークを巡る(中編)

 道の駅みえで昼食となりましたが、その前に展望所から「江内戸の景」を観ました。100mもの厚さの阿蘇溶結凝灰岩を、大野川が9万年かけて削ってできたのか「江内戸の景」です。河岸段丘は4段あり、その間には刈り取り間近の田んぼが広がっていました。




 お盆にはここで精霊流しが行われますが、これは450年前から続いているそうです。また、NHK・BSのにっぽん縦断こころ旅で、俳優の火野正平さんが眺めた風景でもあります。

 我が家のリビングには、38年前に義父が描いた、この景の油絵が飾ってあります。立派な平成大橋はまだ無く、川の水量が増すと水面下に沈んでしまう沈み橋(沈下橋)が懸けられています。





 ここから見える大野川の下流部に「手取蟹戸(てどりがんど)」と呼ばれる場所があります。おおいた豊後大野ジオパークのサイトに、ここの説明がありました。「手取蟹戸は「大野川層群犬飼層」の露頭で、褶曲によって堆積層が転倒し、固い砂岩部分が板戸のように立ち上がって見えます。 手取蟹戸は、古くから知られ、豊後国岡藩により編纂された「豊後国志」には、「巨石無数にして、龍が臥せ、虎が伏しているかの如し」と記述されており、大野川層群の奇岩を形容するにふさわしい一文が与えられています。 (中略) 手取蟹戸付近の大野川の河床では、阿蘇火砕流堆積物の露頭がほとんど見られません。「大野川層群」という地層名をよく表した大野川中流域の特徴ある地形です。」

 つまり、大野川の浸食で阿蘇溶結凝灰岩が削られ、その下の中生代白亜紀の古い地層が見えているのです。



 昼食を終えて次の目的地「原尻の滝」を目指します。滝と言えば一般的には深山幽谷の地にあり、ちょっと神秘的な感じがするものですが、「原尻の滝」は緒方平野の真ん中にあり、足元に滝の最上部があり、瀑布全体を上から眺められるという珍しい滝で、なんだかあっけらかんとした明るさがあります。

 台風の影響で水かさが増し、いつもに増して豪快な姿が見られると期待していたのですが、この日はそれほどでもありませんでした。




 おおいた豊後大野ジオパークのサイトに説明があります。「緒方平野に突如現れるこの滝は、幅が120m、高さ20mで、崖面には柱状節理を見ることができ、滝上の河床では多角形の亀裂が入った溶結凝灰岩の上面を観察することができるほか、滝上から滝つぼを見下ろす崖の縁まで容易に近づくことができます。 また滝つぼには、節理に従って崩落した凝灰岩が多数見られ、滝ができる過程を実際にふれることができる場所となっています。」





 毎年11月中旬に行われる「緒方三社川越し祭り」は、滝の右岸の応神天皇を祀る二宮社に、一宮社の父仲哀天皇と左岸の三宮社の母神功皇后が集まるために、三宮社の神輿が滝の上流を渡るのが見どころです。川面を照らす大松明の火、下帯一つの姿で神輿を担ぐ若者たち、冷たい川を豪快に渡る大神輿と、見どころ満載の祭りです。



 バスで5分ほどで「辻河原の石風呂」に着きました。今は堤防が先に作られていますので、河原という感じはしませんが、かつては阿蘇溶結凝灰岩の断崖が堤防の役目をしていたのでしょうか。

 我々温泉好きにとって、大分県内18市町村のうち、豊後大野市と津久見市だけが温泉のない、残念な所になるのですが、その代りにこんなサウナがあったのですね。


 豊後大野市のHPによれば、「岩窟下部の火室で火を焚き、上部の浴室に石菖(せきしょう)を敷き詰め、蒸し風呂とする。神経痛などに効用があるという。緒方川の左岸に面した岩壁に刳貫かれた浴室と火室の二段式構造の石風呂で、安置された宝塔2基から16世紀後半に作られたと推定される。石風呂右上には梵字(ぼんじ)キリークが彫刻されていて、仏教との関連が濃厚な施設である。地元の古老は、石風呂を「塩石(えんせき)」と呼んでいる。」とありました。



 石菖とはショウブ科ショウブ属に属する多年生植物で、清流沿いに群生する薬草です。別府鉄輪温泉の「鉄輪むし湯」でも使われているのですが、神経痛、筋肉痛、関節痛、疲労回復等々に良いと言われ、それに加えて高温で蒸されることにより、鎮痛効果のあるテルペンを成分とする芳香が放出され、それが皮膚や呼吸器から体内に吸収されるので、さらに良い効果が得らるそうです。



 現在の様に浴槽に湯を貯めてつかるようになったのは、江戸時代中期以降の事で、それまでは蒸し風呂で入浴していましたから、ここは古い時代の入浴法を伝えているのです。是非、一度試してみたいものです。



 ここから川の下流に、5連、73メートルの原尻橋がみえました。



(後編につづく)

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