海心堂の温泉逍遥

日本一のおんせん県おおいた(別府八湯温泉道、奥豊後温泉文化伝)を中心に、九州の温泉(九州温泉道)の入湯記録

キリシタン南蛮文化交流ツアー

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キリシタン南蛮文化交流ツアー

 平成30年11月18日(日)、大分市主催の「キリシタン南蛮文化交流ツアー」に参加しました。

 国東市・日出町・大分市・臼杵市・津久見市・竹田市・由布市の7市町村は、キリシタン・南蛮文化交流協定協議会を結成しています。大分県下にはキリシタン・南蛮文化に関する歴史・文化遺産が数多く残っており、これらを全国・世界に紹介して、大分県の魅力を発信しようとするものです。





 11/18にこのツアーが実施されたのは、日本人として初めて聖地エルサレムを訪ね、その後ローマで司祭となり、日本に戻ったあとは厳しい禁教下で布教を続け、最後は穴吊りの刑で殉教したペトロ・カスイ岐部の列福10周年の記念シンポジウムが、彼の生地国東市国見町で行われていて、これに参加するためです。

 36名の参加者を乗せたバスは最初の訪問地、日出町の大分トラピスト修道院に到着しました。

 大分トラピスト修道院は、カトリック教会に属する厳律シトー会(トラピスト会)の日本で2番目の男子修道院で、正式名称は厳律シトー修道会・お告げの聖母修道院といいます。1980(昭和55)年7月11日に開設され、現在、盛式誓願者10名(司祭2名を含む)、修練者1名、計11名が所属しているそうです。




 別府湾の見下ろす小高い丘の上に建つ修道院は、俗世間との交流を絶ち、祈りと労働に明け暮れる場所ですから、見学できるのはクッキー製造工場と売店、そして紹介パネルと聖遺物のある展示室のみで、修道士の生活を窺い知る事は出来ません。この展示室でフランシスコ・ザビエルの聖遺物(右腕の皮膚)や ペトロ岐部と187殉教者の聖遺骨に手を合わせました。

 敬虔な思いを胸に抱きながら、次に向かったのは日出町の日出城址二の丸館です。

 ここでバスを降り、海沿いの遊歩道を日出漁港まで歩きました。大神漁港の底引き網漁船3艘が港に接岸し、参加者は12名づつに分かれて船に乗り込みます。別府湾の中央部で停泊すると、北西方面に鹿鳴越連山とハーモニーランドの観覧車が見えました。西方向は鶴見岳と扇山、それに続く別府の街並みと鉄輪の湯けむりが見えます。南西方面には高崎山があり、南の方向は大分市の臨海工業地帯の工場群、さらに佐賀関半島と高島が続いています。東方面に四国の佐田岬が見えるはずですが、霞んでいて確認できませんでした。






 船は城下海岸近くに移動して、船上から日出城址と旧成清家日出別邸で国の重要文化財の的山荘を眺めます。この海岸に真水の湧き出す場所があり、ここで育つマコガレイは臭みのなく、高級魚の城下カレイとして珍重されています。




 船は港に戻り、バスで昼食会場へ向かいました。

 昼食後、バスは国東市国見町のみんなんかんホールへ向かいます。


 ここでは、「ペトロ・カスイ岐部神父列福10周年記念シンポジウム」が行われています。村田佳代子氏の基調講演の一部を拝聴しましたが、日本人として次にカトリックの「聖人」になるのは、ペトロ岐部と高山右近だろうと話されていました。




 日本人で聖人に列せられているのは、1597(慶長元)年に豊臣秀吉の命令によって長崎で磔の刑に処された日本二十六聖人のうち20人の日本人と、1633(寛永10)年から1637(寛永14)年にかけて長崎で殉教した聖トマス西と十五殉教者のうち9人の、合計29人です。


 島原の乱で指導者であった天草四郎は、過酷な年貢の取り立てに対する信徒の反乱で、信仰への弾圧に対してではないので、福者に列せられていませんし、今後も可能性は低いのだそうです。 


 個人的考えですが、天正遣欧少年使節 の一員で、帰国後に 穴吊りの刑で殉教した中浦ジュリアンこそが、「聖人」に相応しいと思うのですが。


 この後は、ソプラノ歌手の村田望さんのミニコンサートを聞かせていただきました。

 最後の訪問地は国東市国東町の「弥生のムラ 国東市歴史体験学習館」です。ここは弥生時代から古墳時代初期にかけての貝塚や集落の遺跡で、国の史跡に指定されています。


 弥生時代の生活を体験できる施設として整備されているのですが、六郷満山文化の指定文化財特別展示「祈り 念じ 拝す」という展示会が開催中でした。この施設の目的に合わず、今回のツアーとも乖離していて、違和感すら感じました。



 日本にキリスト教が伝来したのは 1549(天文18)年にイエズス会のフランシスコ・ザビエルによる布教と言われています。キリシタン大名として知られる大友宗麟が生まれたのが1530(享禄3)年で、家督を継いだのは1550(天文19)年、二十歳の年でした。そして、その翌年の1551(天文20)年にイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルに府内で謁見します。伊東マンショら4人の少年を天正遣欧少年使節としてがローマへ派遣したのが1582(天正10)年で、この頃が豊後府内のキリシタン・南蛮文化の最盛期だったのでしょう。


 

 宗麟は1587(天正15)年に没しますが、この年にペトロ・カスイ岐部が今の国東市国見町で生まれ、豊臣秀吉によるバテレン追放令が出されたのもこの年です。


 1613(慶長18)年に徳川幕府によるキリスト教禁教が全国に下知され、ペトロ岐部がマカオからローマに向かったのは翌年の1614(慶長19)年です。ペトロ岐部は1630(寛永7)年に日本に帰国し布教を続けますが、、1639(寛永16)年に仙台で密告逮捕されて、江戸に送られ穴吊り刑を受け、7月4日に腹を火で炙られ、殉教しました。


 日本キリスト教史と宗麟の生涯はぴったり一致し、宗麟とペトロ岐部の生涯はまったくのすれ違いです。宗麟はキリスト教と幸せに過ごし、ペトロ岐部はキリスト教と苦難とともに過ごしました。


 それ以来、1873(明治6)年まで260年間、キリスト教禁教は続きました。


 宗麟の時代にキリシタン・南蛮文化が 花開いたといわれる豊後府内にその痕跡はほとんどなく、わずかにのこる隠れキリシタンの遺物に面影を追い求めるのみです。


 今後もキリシタン・南蛮文化に心を寄せつつ、いつの日か府内ゼウス堂跡が発見されることを願っています。

海心堂

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